2011年12月12日月曜日

在イエメン日本国大使館の再開、イエメン新内閣発足について

在イエメン日本国大使館の再開
平成23年12月11日

1. 在イエメン日本国大使館は,イエメンにおける治安情勢の悪化に伴い,2011年3月16日(水曜日)より一時閉館していましたが,本12月11日(日曜日)よりサヌアの事務所において一部業務を再開しました。

2. なお,当面の間は,限定的な体制による業務の再開となるため,緊急事態を除く領事業務については,引き続き在アラブ首長国連邦日本国大使館内事務所にて行います。

3. 在イエメン日本国大使館サヌア事務所及び在アラブ首長国連邦日本国大使館内事務所の連絡先は以下のとおりです。

在イエメン日本国大使館(サヌア事務所)
所在地:Hadda Area, West of Hadda Water Distillation Factory, Sana'a, Republic of Yemen(P.O. Box 817)
電 話:国外からは(国番号967-1) 423700
ファックス:国外からは(国番号967-1) 417850又は417860

在イエメン日本国大使館(在アラブ首長国連邦日本国大使館内事務所)
所在地:Abu Dhabi, United Arab Emirates (P.O. Box 2430)
電 話:国外からは(国番号971-2)443-5696
ファックス:国外からは(国番号971-2)443-4219

4. 現在イエメンには,「退避を勧告します。渡航は延期してください。」の危険情報が発出されていますので,同国への渡航を予定している方は,目的のいかんを問わず渡航を延期してください。


イエメン新内閣発足について
平成23年12月9日

1. 12月8日(木曜日)(現地時間7日(水曜日)),アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー・イエメン副大統領(Abdurabboh Mansur Hadi, Vice President)は,野党勢力のムハンマド・サーリム・バシンドワ元外相(Mohammed Salem Basindwa, Former Minister of Foreign Affairs)を首班とし,閣僚ポストを与野党が折半する挙国一致内閣の発足を表明しました。

2. 挙国一致内閣の発足は,先般署名された湾岸協力理事会(GCC)イニシアティブ及び同イニシアティブの実施メカニズム(実施工程表)に沿って同国が平和的な権限移譲を達成する上での重要なステップであり,我が国はこれを歓迎します。

3. 我が国としては,ハーディー副大統領及びバシンドワ新内閣の下,権限移譲プロセスが円滑に進み,同国の安定が達成されることを期待します。

4. 我が国は,今後とも,イエメンの安定のため,できる限りの協力を行っていく考えです。
(参考)経緯
(1)2011年2月から本格化したサーレハ大統領退陣要求デモによる混乱を収拾するため,4月からGCCがGCCイニシアティブ(大統領は副大統領に権限を移譲するが,訴追を免除される)への署名を大統領及び野党に働きかけ。野党は5月に署名。大統領は11月23日に署名。同日与野党は同イニシアティブの実施メカニズム(実施工程表)に署名。
(2)11月26日,ハーディー副大統領は,実施メカニズムの規定(実施メカニズム署名日から90日以内の大統領選挙実施)に従って,2012年2月21日に大統領選挙を実施する旨表明。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/23/dga_1209.html

Embassy of the Republic of Yemen, T 03-3499-7151 F3499-7837 Room# 807, Kowa 38 Bldg. 4-12-24, Nishi- Azabu, Minato-ku http://www.yemen.jp

2011年11月25日金曜日

イエメン・サレハ大統領、権限移譲案に署名 権力の座去る

毎日新聞 2011年11月24日 1時12分(最終更新 11月24日 1時51分)

イエメン・サレハ大統領、権限移譲案に署名 権力の座去る

【カイロ和田浩明】野党勢力などの退陣要求に直面しているイエメンのサレハ大統領が23日、サウジアラビアの首都リヤドを訪問、サウジが主導する湾岸協力会議(GCC)や欧米が仲介した権限移譲案に署名した。
これにより、サレハ氏は33年間維持した権力の座を降りることになった。
AFP通信などによると、サレハ大統領は22日、国連の潘基文(バン・キムン)事務総長と電話協議し、権限移譲案に署名後に治療のため米ニューヨークに向かうと述べた。事務総長が23日、記者団に語った。事務総長はさらに、サレハ氏が権限移譲後も大統領職にはとどまるとの見通しも述べた。
中東の民主化運動「アラブの春」で国家首脳が退陣に追い込まれるのは、チュニジア、エジプト、リビアに続き4人目。
複数の地元報道関係者によると、イエメンでは首都サヌア北部のハサバ地区や北方のアルハブ地区で23日も大統領派と反大統領派の戦闘が断続的に続いており、移譲案の受け入れが治安維持につながるか流動的だ。
GCC案では、サレハ氏は署名後30日以内に大統領権限をハディ副大統領に移譲。見返りとして、訴追免除と身の安全を保障される。これを受け、反大統領派も含めた新政権を樹立。サレハ氏の権限移譲後60日以内に大統領選挙が実施される。
サレハ氏はこれまで、3度にわたり調停案への署名を拒否。6月には大統領府での暗殺未遂事件で重傷を負いサウジで3カ月間治療を受けたが帰国。その後も退陣要求を拒否し続けていた。今回の突然の翻意について、地元通信社マリブ・プレスのアハメド・アヤイエド編集主幹は「反大統領派との戦闘が拡大し、大統領派が弱体化し始めたためではないか」と分析した。

毎日新聞

2011年11月7日月曜日

H23年度の叙勲者について報告(連絡)

本年度(H23年)の春・秋の叙勲で下記の元駐イエメン国日本大使の二名が瑞宝中綬章を叙勲いたしましたので報告いたします。

   平成23年度の春の叙勲:  「鹿毛純之助」氏
   平成23年度の秋の叙勲:  「秋山進」氏

ここに慎んでお祝いの報告をさせて頂きました。
今後の両氏のご活躍に期待をしたいと思っています。

また、機会があれば当協会の講演会で話をして頂く様に計画を立ててみます。(好御期待) 

簡単ですが連絡まで 

手島専務理事
日本イエメン友好協会
2011・11・3

2011年10月10日月曜日

2011年の ノーベル平和賞をイエメンの平和活動家に決定

本日の報道(TV・新聞・インターネット)で報道されたとおり本年(2011年)のノーベル平和賞はリベリアの二人の女性とイエメンの平和活動家であるMs タワックル・カルマンさんが受賞しました。 

協会としてお祝い申し上げます。おめでとうございました。

平和賞授賞理由は下記の通り。

もっとも過酷な環境の中で、「アラブの春」の前と間に、女性の権利とイエメンの民主主義と平和のための闘いで、主導的な役割を演じてきた。

               2011年10月7日の ノーベル平和賞選考委員会 発表


イエメンのタワクル・カルマンさん
10月7日(金) 18時55分-海外総合(時事通信)-写真


以上報告まで

日本・イエメン友好協会

2011年10月5日水曜日

10月1日・2日のグローバルフェスタは無事終了しました


初秋の日比谷公園で開催されたグローバルフェスタも天候に恵まれて無事終了することが出来ました。
本年は東日本大震災があり被災地域の連携の絆というテーマで開催されました。



なお、本年は元JOCVイエメン派遣の若い力の協力もあり、今までに無い賑わいで華やかなブースの運営が出来ました。





また、駐日イエメン大使館のMr.ターレック臨時代理大使よりブースの運営に対するお礼の言葉を頂いております。二日目の10月2日には臨代御夫婦でブースに立ち寄られて慰労の言葉を頂きました。
当日の写真を添付しますので参照してください。



簡単ですが報告まで

手島専務理事
日本・イエメン友好協会


PS:GFでボランティアーとしてお手伝いを頂いた会員の方々及び元JOCVの隊員の皆様有難うございました。

2011年9月22日木曜日

外務省・外務報道官談話 イエメン情勢について

平成23年9月20日

1..
9月18日(日曜日)及び19日(月曜日),イエメンの首都サヌアにて,治安部隊等のデモ隊に対する発砲により,多数の死傷者が発生しました。

2..
我が国としては,今回の衝突を含め,イエメンにおいて,これまで300人以上が死亡,多数の負傷者が出ていることに対して強い遺憾の意を表明します。我が国はイエメン政府に対し,平和的なデモに対しては抑制的な対応をとり,暴力の使用を差し控えるよう強く求めます。

3..
我が国は,イエメンが,これ以上の衝突を回避し,同国の安定を回復するため,湾岸協力理事会(GCC)仲介案が一刻も早く署名され,平和的な権限移譲が実現することを強く期待します。


【参考】

(1)2月11日(金曜日)以降,首都サヌア等でサーレハ大統領の即時退陣等を求める反政府派のデモが継続。9月18日(日曜日)及び19日(月曜日)の衝突で,少なくとも46人が死亡,数百人が負傷した模様。
(2)4月,GCCは,仲介案(大統領が辞任し副大統領に権限移譲する代わりに訴追を免除される)の署名を大統領,野党に働きかけ。大統領は,拒否(野党は署名)。
(3)6月3日,サーレハ大統領は大統領宮殿内の爆発で負傷。現在,サウジアラビアで療養中。
(4)9月12日,サーレハ大統領は,大統領令にて,GCC仲介案の実施に関し,野党と交渉し署名する権限を副大統領に付与。
(5)9月19日,最新情勢を把握し,イエメン関係者と協議するため,GCC事務局長及び国連事務総長特別顧問がサヌアに到着。


以上

2011年9月1日木曜日

グローバルフエスタの案内

H23年度のグローバルフエスタが10月1日・2日に日比谷公園で開催されます。

当協会は例年通り大使館に協力をして当日は大使館ブースを運営いたします。

会員各位には時間が許される範囲で当日の協力(お手伝い)をお願いいたします。


以上

報告まで
何か質問等が有りましたら事務局まで連絡を頂ければ幸いです。

日本・イエメン友好協会
手島 専務理事

2011年8月22日月曜日

【イエメンはどこに行く・13】《イギリスから見た中東》

今朝(2011年8月22日)のニュースで、リビアのカダフィ大佐の次男が反カダフィ勢力に捕まって、いよいよカダフィ体制も末期だというような観測が伝えられていました。3月後半に始まった欧米による反カダフィ派支援の軍事行動がようやく結実しそうです。しかし、この半年近くにわたって繰り広げられた干渉行為は、決して正気の沙汰ではないと思います。欧米の人々がこれを冷静に認めるようになるにはしばらく時間がかかるでしょうけれど。

さて、私がまだロンドンにいた先月(2011年7月)、セントジェームズ広場に面した王立国際問題研究所(通称チャタム・ハウス)で「オサマビンラーデン後の世界~9.11以後の十年」と題したセミナーがありました。その場を支配している論調を聞いていると、かつてのアデンの宗主国であったイギリスでさえも、現在中東で起こっていることを、現地の固有の事情などより、自国の都合で解釈するバイアスがきわめて強いことが印象的でした。

セミナーは二部構成でそれぞれ75分ずつ。司会が提示した問いに対して、三人のスピーカーがそれぞれに話をし、そのあと30分ほど質疑の時間を取るというスタイルです。チャタムハウスの通常のセミナーは60分ということが多いので、いつもよりも質疑の時間が多かったのです。

興味深い問いは「オサマビンラーデン(UBRと略している人がいました)が死んでテロとの戦争は終わったのか」「イギリスの治安状況は改善するのか」などで、もちろん専門家たちはおおむね「YesでもありNoでもある」というような答えをするのですが、問う側も答える側も「中東地域が安定するかどうか」はどうでもよくて、「イギリスにおけるテロの脅威は低減するのか」にもっぱら関心があるということがよくわかります。このロジックだと、イギリスに住む人々に対する脅威が低減するなら、中東で事態が混乱してもかまわない、ということにもなりかねません。その地に住んでいる人の幸せより、まずは自分たちの身の安全。

コーヒー・ブレークの時にクッキーのそばに置かれていた政府発行のパンフレットは、私にはさらに興味深いものでした。タイトルは「Conest:The UK`s strategy for COuntering Terrorism」発行は July 2011。できたてのほやほやです。

  その中にはこんなことが書いてあります。「昨年一年で1万人がテロの犠牲になっています。」「アルカーイダの指導部は(ビンラーデンの死を経て)9.11事件以来最も弱体化しています。」「アルカーイダは「アラブの春(中東における民主化デモ)」に何の影響力も及ぼしていません。」つまり、テロの脅威を国民に啓蒙しつつ、イギリスはアルカーイダの封じ込めに成功しつつある、というメッセージです。

イギリスに住んでいると、西欧キリスト教徒のイスラム教に対する本能的な恐怖感を感じることがしばしばあり、アルカーイダに対する嫌悪感の大半はこうした感情に根ざしているように思います。そして西欧人が「アラブの春」における民主化デモ勢力、とりわけリビアの反カダフィ勢力を判官贔屓ともいえるほどに支援したがる(支援のために空爆までしてしまう)理由の一つが、こうした民主化勢力はアルカーイダの対抗勢力だと考えているからなのでしょう。

パンフレットにはアルカーイダ対策の全体的な楽観が表明されつつも、「しかしアルカーイダの系譜の組織が、特にイエメンとソマリアで過去二年で現れてきました」との言及があります。これが、現在イギリスにおけるイエメン注視の根拠となっているわけです。決してイエメン人の置かれている状況に対する同情からではありません。

また、パンフレットはHomegrown terrorist、すなわちイギリスに生まれ育ちながらもイスラム過激派の思想に共鳴する人々に対する警戒を呼びかけています。その重要な「洗脳」拠点としてパキスタンの脅威が指摘されており、それゆえにイギリスの外交はパキスタンの安定に注目するのです。

ところで、このパンフレット、後半は北アイルランドのIRAの話が続くのです。つまり、どちらも純然たるイギリスの国内問題なのです。おそらくアメリカの市民にとっても同様でしょう。6月にワシントンに行ったときにも、地元の人々は「今日のワシントンDCのテロ警戒警報は、オレンジレベル(要注意)」というようなことをお天気の話のようにしていました。

英米が、こうした「国内治安対策」の延長上で軍事作戦を展開したり、中東・アラブの政策を考えるのは仕方がないと思います。しかし、日本がそうした政策に同調しなければならない理由はほとんどありません。ならば、イエメンの庶民の生活の安定の寄与する、長期的な視野に立った適切な対策を提案できるのは英米よりも日本ではないでしょうか。現実的にはそれが難しいことは重々承知していますが、それでも日本外交のイニシアチブを期待したいところです。がんばれ外務省の中東関係者!
【2011/8/22 佐藤寛】

2011年8月5日金曜日

日本国政府はイエメン国内避難民支援

平成23年8月1日に外務省発のプレスリリースがなされましたので全文記載いたします。


1.
8月3日(水曜日),我が国は,イエメンの人道状況改善に貢献するため,国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)のイエメンにおける活動に対し1億円を拠出する予定です。
2.
イエメンでは,本年2月以降,33年間政権の座にあるアリ-・アブドッラー・サーレハ大統領の退陣を求める反政府派と治安機関等との衝突が継続し,これまでに300人以上が死亡しています。また,同国では30万人以上の人々が国内避難民(IDP)となっています。このような状況を踏まえ,この拠出は,イエメンIDPに対する支援等に活用されます。

【参考】
(1)
イエメンは人口2,358万人(2009年)で国民一人当たりの国民総所得は1,060ドル(2009年)。アラビア半島で唯一の最貧国。
(2)
サーレハ大統領は,1978年北イエメン大統領に就任。1990年の南北イエメン統一後はイエメン共和国大統領。通算33年間政権を維持している。本年4月より湾岸協力理事会(GCC)が,平和的権限移譲に向け仲介を行ってきたが,大統領は現在までGCC仲介案を拒否している。6月,大統領は,大統領宮殿内の爆発で負傷し,現在サウジアラビアで治療中。
(3)
南部のアビヤン州では,本年3月以降,勢力伸長を計るアル・カーイダ系武装集団と政府軍との戦闘が継続しており,このため,同州の住民4万5,000人以上が周辺地域に避難した。北部のサアダ州等では,2004年以降,6度に亘り発生した反政府武装力と政府軍の間の大規模武力紛争により,約30万人がIDPとなっている。

以上

日本イエメン友好協会
事務局長

2011年8月2日

2011年7月13日水曜日

総会報告

H23年度の総会が7月8日にJICA広尾で開催されました。

1.始めに
  基調講話を下記の2名にお願いした。
 1)Dr.マルワン氏(東京農工大)
   「最新情報のイエメン」
 2)足立 氏(主任研究員/中近東文化センター)
   「センターの紹介とシリアにおける発掘の調査」
  
大変有意義な講和でした。Dr.マルワン理事のイエメン情勢はタイムリーな話題でした。足立氏の講話は日本が協力して発掘の調査をしている割には一般的に知られておらず大変貴重な話でした。シリアを訪問する機会があれば是非訪問してみたい遺跡群が多く有りました。

2.議題報告

 1)会計報告
   理事会で承認されたH22年度活動報告は承認された。
   但し、H23年度の予算については作成して理事会に図る事とした。
 2)活動報告と計画
  平成22年の活動報告と平成23年度の活動計画は承認された。 
  具体的には4.を参照してください。
 3)役員の追加
  在留イエメン人担当理事を設け、Dr.マルワン氏(東京農工大・准教授)が
   承認された。 
 4)日比谷公園での展示用パネルについて
   昨年、紛失した10枚ほどのパネルの代替として二枚程度を再度作成する事と
   なった。手配等は後日事務方で決定し理事会に報告をする。

3.その他報告
 1)元駐イエメン国日本大使の瑞宝中綬章受賞
   元駐イエメン国日本大使の「鹿毛純之助」氏が、平成23年度の春の叙勲で
   瑞宝中綬章を受賞された。
   協会として講演会の実施を検討します。
2)H23年度の予算が議論され近日中に作成して理事会に提出する。
 3)規約の一部改定
   役員の定数の変更及び年会費についての項を後日専務等と打ち合わせて
   決定し理事会に報告をする。
                        
4.平成23年度活動計画(平成23年4月1日~平成24年3月31日)
  主な活動計画は下記の通り。

 1)グローバル・フェスタの参加
   本年も10月1日・2日に日比谷公園にて開催される
   グローバル・フェスタに大使館のお手伝いとして参加。
   協会の輪を広げ会員の増加を目標としたい。
 2)マフラジ(機関紙)の発行 (年に一回 以上の予定)
 3)ブログの更新最低月一回の記載
 4)新年会または忘年会を実施する予定。
 5)当協会のカレンダーの作成 
   本年度用同様に卓上カレンダーを作成する。
 6)アラビア語の自主勉強会の検討
   対象者を検討して再度事務局が検討をする。
 7)協会独自のイベント(講演会等)の開催
 8)その他(本年度の報告事項として)
   以下のイベントは中止又は不参加となった。
   ・主催者都合で中止 アラブ・デー(4月1日)
   ・主催者都合で中止 駐アラブ大使夫人の会バザー
   ・イベントの不参加 
    (4月23日・広尾でのフェスタ及び7月18日のFTバザー)
                 
以上

報告まで
何か質問等が有りましたら事務局まで連絡を頂ければ幸いです。

日本・イエメン友好協会
事務局長

2011年7月12日火曜日

【イエメンはどこに行く・12】《アデン・アラビア》

アデンはインド洋の西の端に位置し、アラビア半島と「アフリカの角」ソマリアに挟まれたアデン湾に面しています。アラビア半島とアフリカ大陸の間の紅海の入り口に当たり、スエズ運河を越えて地中海に抜けるためには必ず通り抜けなければならない航路上にあります。

岩山に囲まれた天然の良港で、インド洋を航行する船舶にとっては重要な停泊地であり、15世紀には明の鄭和が寄航している記録もあるそうです。蒸気船の時代になってからは石炭補給地(のちに給油地)としてイギリスが活用し、1839年にイギリスが軍事占領した当初はインド提督の管轄下で(インド経営のためのイギリス船舶を海賊から守ることがもともとの目的だったため)、インドからの移民も多く現在でもアデンにはインド系の顔立ちの人が目立ちます。

イギリス占領下で、アデンは世界第二の寄港数を誇る近代的自由港としてその名を轟かせ、幕末から明治時代にかけての日本からの欧州派遣留学生の多くもこの港に寄港しています。スエズ運河完成(1869年)後はイギリスのアジア航路の要衝となり、イギリス人ばかりでなく、アフリカに進出しようとするヨーロッパ人のたまり場となっていたようです。詩人ランボーは19世紀末のフランス商社勤めの頃、この港に住んでいました。フランスのコミュニスト思想家、ポール・ニザンがパリの高等師範学校在学中にパリを逃げ出して一年間この町に住んだのは1930年。後にまとめられたエッセイ『アデン・アラビア』に彼は「アデンにヨーロッパの圧縮された姿」を見たと書いています。

1937年に「アデン植民地」としてイギリス本国からの直接支配になり、補給機能充実のために製油所が建設された1950年代がこの港のピークだったようです。当時は港の税関・入国管理事務所を抜けたところに「免税店街」があり、旅客船が着くたびに船からはき出された客でごった返したそうです。

その後旅客は航空機の時代になっていき、また1960年代以降は中東・アフリカにおける英仏の影響力が低下してアデンは顧みられなくなっていきますし、1970年代になるとアラビア半島の産油国が「オイルパワー」を用いて急速な近代化を開始し、アデンは「アラビア半島一の近代都市」から「田舎の港町」に転落していきました。《タワーヒー》と呼ばれるこの税関前の海岸通りには、今でも昔のままの石造りの建物がありますが、いずれも鎧戸を下ろし、さびれ果てていて当時の面影はありません。アデンの没落はある意味では「時代の流れ」ですが、他方政治に翻弄された「人災」の部分も少なくありません。

まず第一の「失敗」はイギリスの植民地統治の後遺症です。イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぎましたが、その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットを感じていませんでした。このため、これらの地域は現地の首長(Sahikh)やスルタン(Sultan)が治める「土侯国」「スルタン国」の権限をある程度認め、補助金を提供しながら間接統治をしていました。さて1960年代に末にイギリスが植民地を手放すときには、なるべく親英的な穏健派に権力を譲ろうといろいろと工作しました。

アデンはイギリス直轄領で、教育などの機能も充実していたし、港湾関係の雇用もあるので北イエメンから山を下りて多くの労働者が流入し、アデンに定着する人も出てくると、子弟を出身地から呼び寄せ、学校教育を受けさせます。このため、アデンには他の南イエメンとのつながりの薄い北イエメン出身の労働者が多くなりました。このほかにイギリスに連れてこられたインドからの移民も大きなコミュニティーとなっています。そのほか対岸のソマリアからも流入してきます。この意味でアデンは国際都市だったのです。

湾を挟んで港の対岸《リトル・アデン》に建設されたアデン製油所はブリテッシュ・ペトロリアムの経営する近代的な施設で、多くの労働者を雇用し、労働者のためのラジオ局、映画館などの施設も充実していました。またもともとの港湾作業に従事する労働者も数多くいます。

1956年のスエズ危機で英仏を向こうに回して戦ったエジプトのナセル大統領はアラブ世界全体の英雄となり、彼の唱える「アラブ民族主義」はイギリス植民地下にあるアデンの人々、保護領となっている地域の若者、さらにはイマームの圧政に苦しむ北イエメンのエリートなどを刺激します。こうしてアデンやアデン保護領では労働組合、アデンで教育を受けた部族出身者などを中心に急速に「反英独立闘争」が活発化します。

イギリスは当初これを軍事的に抑圧しますが、南イエメン独立の方針が発表されると、過激化するアデンの労働者よりもアデン保護領の保守的な首長たちに政権を委譲して、独立後の権益を確保することをめざし、1959年に六つの首長国からなる「南アラビア首長国連邦」を結成します(その後1962年に4つが加わって「南アラビア連邦」になり。1965年までには「上ヤーフェア」首長国以外のすべての保護領の首長国が加盟しました)。この穏健派首長の抱き込みによる親英国の確保、実はアラビア半島の対岸でも同じ試みが行われていたのです。それが、現在のアラブ首長国連邦(UAE)です。UAEは今でも七つの首長国の連邦で、ドバイ、アブダビなどは中東でも指折りの近代都市になっていますね。

イギリスはこうした保守派首長国によってアデンの過激化する政治勢力を中和しようとしたのですが、ペルシャ湾岸のUAEのようには行きませんでした。それは、1962年に北隣のイエメンで共和国革命が起こり、南部イエメンの人々にも「革命熱」が広がったこと、さらに紅海を挟んだ向かいにはナセルのエジプトが控えており、ナセル大統領からの物心両面の支援が「アラブ民族主義」勢力に届きやすかったからです。

アデンで彼らは占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)を組織して独立闘争を継続します。今なら、イギリスやアメリカはナセルを「テロリスト」と呼ぶかもしれませんね。イギリスは1965年には「南アラビア連邦」の自治権を停止して直接統治に乗り出ますが、思い通りにはいかず妥協してFLOSYやその他のアデンの政治勢力、と南アラビアの首長国と独立方法について交渉を始めます。

ところが、時は冷戦時代で、アフリカに続々登場した社会主義政権同様、アデンにはFLOSYよりさらに急進的な社会主義勢力NLFが台頭、東側勢力からの支援を受けて1967年後半に首長国を次々と軍事的に攻略、同年10月にはアデンも支配下に置くまでなりました。イギリスはもはやアデンのコントロールをあきらめ、11月末にNLFと独立協定を結んであっけなく撤退しています。新生「南イエメン人民共和国」はアデン、旧アデン保護領、旧ハドラマうと保護領を統合して誕生します(1967年11月30日)。

この時点では、アデン以外の地域は決して社会主義に賛成していたわけではありません(南アラビア連邦の一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアに亡命しました)が、たまたまアデンを握っていたNLFがイギリスから政権を移譲されたことが、これ以降長く続くアデンの凋落の第一歩となるのです。この意味で、イギリスの無責任な権力放棄の罪は小さくありません。 【佐藤寛 2011/7/12】

2011年7月6日水曜日

【イエメンはどこに行く・11】《ティハマとアフリカ》

サレハ大統領が大統領府での爆発で重傷を負ってから一ヶ月が経過しました。サレハ大統領がサウジに手術のために出国したときに「これでサレハが退陣して、問題解決」という楽観的な見通しを出した人もいましたが、一ヶ月たっても事態は進展していません。すでにお話しししたように、私はサレハが一度帰国して退陣を表明することが安定的な政権移行には不可欠な前提条件と考えています。

今日、ロンドンでイエメンの民主化運動をサポートしている若者と話をする機会がありました。彼は、サレハがこのまま引退して「権力の空白」が出来たら民主化運動の代表者が話し合って今後の政治の行方に合意すれば良いのでは、と言います。もし、今サナアで様々な民主化運動をしている人たちが、イエメン全体を代表しているのならそれも可能かもしれません。しかし、私はサナアで起こっていることは決してイエメンの多くの国民の意向を反映しているとは思えません。前回お話したハドラマウトは「代表されていない」人々ですし、「ティハマ」の人々も同様です。

「ティハマ」は沿岸部を意味するアラビア語で、広義にはアラビア半島の西側から南側を取り巻く沿岸部を指しますが、主にイエメンの紅海沿岸部を指す言葉として使われます。ティハマは平均して幅60キロメートルくらいの砂地の平地で、そこから内側は急峻な山岳部がそそり立っています。山岳部には雨が降りますが、ティハマは灼熱の地で雨もほとんど降りません。山岳部に降った雨が紅海に向かって流れていく道筋がワーディーになっていて、ワーディーに沿った農業が行われています。ワーディーは海に届く前に蒸発して消えてしまいますが、山から出てきたあたりにダイバージョン・ダムを造って灌漑設備を作るという「開発計画」は1970年代に国際機関の援助によるイエメン最初の援助プロジェクトとして実施されたのです(残念ながら現在では十分なメンテナンスはなされていませんが)。

ティハマの対岸はスーダン南部とエリトリア(1994年にエチオピアから独立しました)で、イエメンの漁民は紅海を股にかけて漁をしており、両側に妻を持っている人も少なくないと言います。このため、エリトリアの沿岸部はイスラム教徒がほとんどで、用いられている言葉もイエメン方言のアラビア語でする(内陸部はキリスト教徒で用いられているのもアラビア語ではありません)。このため、ティハマの人々の方にもアフリカ系の血が混じっている人も多く、住居も山岳部の石造り、日干し煉瓦造りの方形の家とは異なり、いわゆる草葺き屋根の「マッシュルームハウス」が基本です。

産業は漁業と農業、製塩業、陶器作りなどですが、イエメンの中でも最も貧しい地域です。これは、アフリカ系の人々がイエメン政治の中では一段低く見られていることも影響しています。ティハマの農地はほとんど山岳部の部族が所有権を持っているといわれているのです。またティハマのアフリカ系の人々はかつてエチオピアとイエメンが戦争してイエメンが勝ったときに奴隷として連れてこられた人たちの子孫だという人もいます。シバの女王の遺跡がイエメン内陸部のマーリブと、エチオピア内陸部の両方にあるのも、その当時から紅海を挟んだ人の行き来があったことの証拠です。

また、1990年の湾岸危機(イラクのクウェート侵攻)の時に、サウジアラビアがイエメンのイラク支持に怒って国内から追放したイエメン系の人々が難民のようにして住み着いているキャンプもティハマにいくつかあって、貧困層の数を増しています。さらに、アデン湾側に回ると、ソマリアからの難民も続々と船に乗って漂流してきます。このように、ティハマは貧しく、またアフリカとの関係が強いのです。しかし、ソマリア難民以外のティハマの人々は立派なイエメン人です。ところが、彼らの代表者はあまりイエメンの政治に登場してきません。

紅海の沿岸には、北部イエメンの主要港であるホデイダ、かつてコーヒー貿易で栄えたモカ(モカコーヒーの名前はこの港にちなんでいます)などがありますが、ホデイダを押さえているのは山岳部の人々だし、モカ港は完全にさびれています。一言で言えば、ティハマの人々は「忘れ去られて」いるのです。おかげで、これまでイエメン国内で様々な内戦があっても、ティハマは常に「蚊帳の外」だったので、平和が保たれてきたということはあります。

今回の政治的混乱がどのような形で沈静化するとしても、今後はティハマの発展、ととりわけ保健(マラリアも定期的に流行しますし、アフリカからの難民などの流入でHIVエイズの蔓延も危惧されます)、教育の充実が適切に配慮されるべきでしょう。ティハマの人々がある程度安定的に生活できるようになれば、対岸のアフリカにも良い影響を及ぼすでしょうし、アフリカからの難民に一定程度の教育や職業訓練を施すことは、将来の「アフリカの角」の安定化にも寄与するでしょう。それ以上に、サナアを舞台に北部部族勢力の人々だけが権力をたらい回しする状況を放置しないためにも、ティハマの発言力強化は意味があると思います。【佐藤寛 2011/7/6】

2011年7月2日土曜日

【イエメンはどこに行く・10】《ハドラマウト・後編》

ハドラマウトに行くと、イエメンの他の地域とはモスクの様式が異なっていることに気づきます。山岳部イエメンのモスクのミナレットは円柱形で、漆喰の白と日干し煉瓦の茶色のいずれかの色が多いのですが、ハドラマウトのミナレットは細い角柱形で、一番上にバルコニー形式の吹き抜けのスペース(本来は礼拝を呼びかける人がそこに立って朗唱した場所ですが、今はラウドスピーカの設置場所)が付いています。そして淡いピンクやブル-、緑などのパステルカラーで彩色されています。

人々の顔つきも、山岳部アラブは彫りの深い厳しい顔立ちですが、ハドラマウトに来るとアジア系の血が混じったやや鼻の低い温和な顔立ちが目立ちます。ハドラマウトは旧南イエメン時代はアデンと並ぶ人材供給源で、イエメン社会党はアデン系の人々とハドラマウト系の人々によって支えられていました。しかしながら、1994年の内戦でハドラマウト出身のアルビード副大統領が失脚して以降は、ハドラマウト系の人々の発言力は低下します。

南北イエメンが統一されて、社会主義的な政策が崩壊したことは、経済活動に活路を見いだすハドラミー(ハドラマウトの)商人にとっては朗報でした。しかしながら統一に伴って政府の機能の多くと主立った政治家はサナアに移ってしまい、彼らの活躍の舞台であったアデンは首都の地位を失って重要性が低下してしまいます。

また、高原都市である首都サナアは灼熱のハドラマウト渓谷(夏には50度を超えることもあります)に比べて寒すぎ(冬には霜が降りることもあります)て住みにくく、また「野蛮」な山岳地イエメン人の支配する政府とハドラマウト商人とはなかなかそりが合いません。こうしてハドラミーはイエメンの政治・経済の蚊帳の外に置かれてしまうのです。

しかも、サナアの中央政府からはハドラマウト地方の開発はさらに後回しにされがちであるばかりでなく、「行政改革」の名の下に従来のハドラマウト州を海岸部(港町ムカッラが中心)と内陸部(ワーディーのオアシス都市セイユーン中心)に分割するという提案があり、これに対してはハドラミーは猛反発しています。確かに他の18州に比べてハドラマウト州の面積は不釣り合いに大きいのは事実ですが、ハドラミーとしてのアイデンティティーを強く持つ彼らにとっては分割は受け入れられないのです。こうした不満の果てに、一部では「ハドラマウト独立」を唱える声出てくる始末です。

今回の民主化デモはサナアを中心に盛り上がっていますが、ハドラマウトの人々がこれにどのようにコミットしているのかは明らかではありません。しかしながら、ハドラミーにしてみれば、誰が政権を取るにせよ「とにかく我々の好きなようにさせてくれ」というのが本音でしょう。実際に、彼ら自身で地元の発展を計画し、実施していく能力は確実にあると考えられます。それなのに、中央政府から任命されてくる軍人や知事が行き勝手なことばかりするから発展できないのだ、というのが彼らの偽らざる心情なのです。

では、今後ハドラマウトはどうなるのでしょう。イエメン全体の発展のためにも、特に潜在力の高いハドラマウトは、ハドラマウト人自身による開発計画にゆだねるべきでしょう。その基本は人的資本を活用した自由な商業活動による発展です。そして東アフリカ、東南アジア、南アジア、さらにはサウジアラビアの財閥とのネットワークという財産を最大限活用できるような活動の自由を与えることが望ましいのだと思います。 ハドラマウトにとっては、サナアの政権が誰の手に落ちようとも直接的には関係ありません。その意味で今回の一連の騒動の影響は限定的でしょう。しかし、新たな政権がこれまで通りハドラマウトを軽視したり、過度に制約を課したりすることは南アラビア全体、アラビア半島全体の安定にとって望ましくない事態を招きかねないと思います。
【佐藤寛 2011/7/2】

平成23年度 総会の開催

平成23年度の総会を下記のとおり開催いたします。

日時:平成23年7月8日(金)18:30~
場所:JICA地球ひろば 401号室

総会時の講演(講演の時間帯は当日決定します。)

・Dr.マルワン博士(東農工大・講師) 氏 「イエメンの最新情報」

・足立 氏 「中近東文化センターの紹介」と「シリアにおける日本隊の発掘調査について」

総会の出欠に関しては連絡を頂ければ幸いです。
皆様の参加をお待ちしています、皆様万時繰り合わせてご出席ください。

★当ブログでは、現在 佐藤寛理事 の「イエメンは何処に行く」を連載していますが、これからも続きますので引き続きお楽しみください。

以上

今後とも宜しくお願いいたします。


日本・イエメン友好協会
事務局長

2011年6月28日火曜日

【イエメンはどこに行く・9】《ハドラマウト・前編》

ハドラマウトは、イエメンに19ある州のうち最大の面積を持つ州で、イエメンの東部のかなり大きな部分を占めていますが、定住地は海岸沿いと内陸のハドラマウト渓谷に限られるので人口はそれほど多くありません。オマーンとの間にマハラ州がありますが、こちらはさらに人口密度の少ない地域です。

ハドラマウト人は、イエメン国内の他の地域とは少し異なる独自の歴史とアイデンティティーを持っています。 アラブの血統学上ハドラマウトの人々はやはりカハタン(純粋アラブ)の系譜に位置づけられますが、ハドラマウト以西のイエメンの人々とは、かなり早い段階で枝分かれした系譜を持っており、その始祖の名前が「ハドラマウト」です。

そしてシバの女王で有名な古代南アラビア王国の時代(紀元前10~紀元1世紀)には山岳部イエメン、内陸砂漠部イエメンとともに南アラビアの一部を構成していましたが、それ以降は山岳部イエメンとは緩やかなつながりしか持っていませんでした。 紀元(正確にはキリスト歴というべきですが)7世紀にメッカで預言者ムハンマドがイスラム教を唱え始めると、ハドラマウトの人々は早い段階でイスラム教に帰依し、イスラム帝国が北アフリカに進出したときにはその先兵となって活躍したのがハドラマウト人だったと言われています。

その後、イスラム帝国の首都がバクダードにあったアッバース朝期(8世紀~13世紀)には『千夜一夜物語』の「シンドバードの冒険」のようにインド洋の航海をアラブ商人が支配する時代がやってきます。このアッバース朝末期にインド・東南アジア方面にイスラム教を広めたのは、ハドラマウト商人たちだったのです(ハイデラバードの語源がハドラマウトだという人もいます)。東南アジアにイスラム王国が発生するのは13世紀以降ですが、その王家の多くはハドラマウト系のアラブ人と現地の女性との混血家系です。ちなみに、現在のブルネイ王家はハドラマウトを出自としています。

ハドラマウトからこのように多くの人が海外に出て行く原因は人口圧力です。ハドラマウト渓谷は降雨のほとんどない乾燥気候で、アラビア半島内陸部・山岳部に降った雨がインド洋に流れ出す涸れ川(ワーディー)に依存したオアシス農業しか産業がないため、人口が増えれば外部に出ていくしかないのです。このため、ハドラマウト人(ハドラミー)は世界的な視野を持ち、商売に長けているとされています。一部では「アラブの中のユダヤ人」と呼ぶ人もいますし、昭和初期の日本人アラビストは「アラブの近江商人」と呼んでいたこともあります。

19世紀前半にイギリスが軍事力でアデンを占領した頃、ハドラマウトにはカーイティー、カシーリーの両スルタン王国がありました。ハドラマウトがイギリスの保護領になって以降も独自の国境を維持することが認められており、1968年の南イエメン独立以前にこの地域を旅行するためには、スルタン王国のビザを取得しなければならなかったそうです。

また、シンガポール、アチェ、ジャカルタ、スラバヤなどの東南アジアの港湾都市には現在に至るまでハドラマウト系の家系が少なからずあります。こうした人々はアラブ名を名乗るばかりでなく、息子が13-14才になると数年間「故郷」ハドラマウトに留学させ、アラビア語とイスラム教を徹底的にたたき込ませ、さらにメッカ巡礼もして「ハジ」の称号を得て、一人前の「アラブ人」になって里帰りさせるという習慣が今でも残っています。ハドラマウト渓谷のオアシス都市の一つタリームにはこうした海外ハドラミーの子弟が通う寄宿舎生学校があり、そこにはアフリカからやってきた混血のハドラミー留学生もいます。こうした教育施設が、イスラム原理主義的な思想が世界に広まる拠点の一つになっているのではないか、と言う人もいます。

第二次世界大戦後、まだ南イエメンがイギリス保護領だった頃に「ハドラマウ独立」を目指す動きは、知識人を中心に、なんとインドネシアのジャカルタで旗揚げしたのだそうです。また、メッカに巡礼に行ってそのまま居着いたハドラミーの中にはサウジの港湾都市ジェッダを根拠にビジネスで成功し、サウジの大財閥に仲間入りした家系も少なくありません。オサマ・ビンラーデンの属する「ビン・ラーデン」家もこの例です。このように海外で成功したハドラミーは、決して故郷とのつながりを切らずに故郷に送金したり投資したりするので、社会主義政権下の南イエメン時代、アデンよりもハドラマウトの方が社会インフラは充実していたとされています。

ハドラミーは他のイエメン人と比べると温和で、争いを好まず、教育程度も比較的高いのですが、他のイエメン人からは「けち」と陰口をたたかれています。1990年の南北統一でアデンの社会主義政権が崩壊して以降、サウジのハドラマウト系財閥は一時競ってアデンに投資をしました。このためアデンにはサナアよりも設備の良いホテルや、大きなショッピングセンターも出来ています。ただ、アデン自由港の計画がちっとも進まないので、開店休業状態ですが。さて、こうしたハドラミーたちは、今後のイエメンにとってどんな役割を担うことになるのでしょうか。それを次回考えてみたいと思います。
【佐藤寛 2011/6/27】

2011年6月25日土曜日

【イエメンはどこに行く・8】《北部部族連合》

サレハ大統領の権力基盤は、国軍と北部部族勢力からの支持でした。イエメン人はすべてノアの曾孫にあたるカハターンの子孫で、この血筋は「正統アラブ」であることをイエメン人は誇りに思っています。そしてイエメンの「部族」は基本的にこのカハターンから枝分かれした誰かを祖先に持つ父系集団です。ですから、イエメン人は人種的(エスニック)にも、言語的にもそしてイスラムという宗教的にも共通の基盤を持っています。

アラブの血統学の立場からは、旧北イエメン地域に住むイエメン人はハーシェド部族連合、バキール部族連合、マドハジ部族連合の三つのどれかに属していることになっています。このどれにも属さない人は、混血アラブであり社会的には少し低く見られるのです。ハーシェド、バキールはサナアからサアダ(サウジとの国境近くの町)にかけての山岳地に住んでいてイスラム教ザイド派です。マドハジは紅海沿岸のティハマ地方と内陸の砂漠地帯に住んでいて、イスラム教シャーフィー派です。系図上ハーシェドとバキールは兄弟ですが、彼らの子孫たちは宿敵関係にあります。

1962年の革命まで北イエメンを支配していたイマームは、血統的には預言者ムハンマドの血を引く宗教知識人家系であり、イエメンの部族には属していません。こうした宗教的な権威が国を支配するためには軍事力を持つ部族の支持が不可欠です。ハーシェドとバキールは「イマームの両翼」と呼ばれて、イマーム王国を支えていたのです。1962年の革命直後は、両部族連合ともイマーム側について共和国派の軍隊と戦っていたのですが、時間が経つにつれてそれぞれの部族連合から共和国側につく部族が出てきて、1967年のサナア包囲の失敗後にイマーム派は崩壊しました。

部族連合というのは、その下にさらに枝分かれした部族(カビーラ)がいくつもあるからです。一般の部族民にとって一番大切なのは、この部族(カビーラ)のアイデンティティーで、自分の名前の最後に部族名をつける人が多いのもこの現れです。部族(カビーラ)の人口規模は様々ですが、基本的に北イエメンの行政単位である郡(州の下部単位)は、おおむね部族領域に重なっています。

いくつかの部族はその下にさらに枝分かれした肢族があり、これらを含めると北イエメンには約600の部族があると言われています。またイエメンには『部族辞典』が存在していて、それぞれの部族の創始者は誰で、どのような歴史をたどってきて、現在どの地域に住んでいるかが書かれています。

所属する部族の数、人口はバキール部族の方が大きいのですが、共和国成立以降はハーシェド部族連合が政治的に優勢でした。その最大の要因は部族連合長であったシェイク(部族長の尊称です)・アブダッラー・アル・アハマルの政治力にありました。シェイク・アハマルは共和国派の部族をとりまとめて1970年代初めにすでに部族連合長の地位を固め、サナアの共和国政府に大きな発言力を持っていました。

1974年6月13日にに軍事クーデターで第三代大統領に就任したハムディ大統領は、知識人でもありアラブ社会主義的な思想を背景に中央集権的な近代国家作りのビジョンを持っていました。このため、特にサナア以南の人々に人気が高かったのですが、部族勢力の政治的発言権を制限しようとしたために、シェイク・アハマルは機嫌を損ねてしまいましす。シェイク・アハマルは北部のアルホウス近辺の自らの部族領域にたてこもり、正規軍との間に一時戦闘状態になってしまいます。こうして政府と北部部族の関係が緊張する中、1977年にサナアの軍指令本部の中でハムディ大統領は爆殺されてしまいます。

この爆殺の背景には部族勢力がいるのではないかと言われていますが、真相は闇の中です。ハムディを継いだ第四代大統領ガシュミはサナアの北方部族出身の軍人ですが、翌1978年に南イエメン特使の鞄に仕込まれた爆弾によって暗殺されます。これを契機に南北イエメンは再度内戦になるのですが、ガシュミの後第五代大統領に就任したのがサレハでした。当時サレハの政治基盤は脆弱で、シェイク・アハマルら北部部族の支持が唯一の頼りでした。サレハ自身はサナアの南のサナハーン部族の出身ですが、サナハーン部族はハーシェド部族連合に属しており、シェイク・アハマルは「若造」サレハ大統領(就任時はまだ30代です)にとっては、自分の属する部族連合長でもあり、百戦錬磨のベテランなので北部地域の問題は基本的に彼に依存することになります。

こうしてサレハ大統領とシェイク・アハマルとの二人三脚が始まり、1990年以降の統一イエメンではシェイク・アハマルは「イスラーハ」党党首であり、また国会議長の要職にも就いていました。この間、バキール部族連合の側からの「自分たちの部族領域に開発プロジェクトが少ない」などの不満はありつつも、ハーシェド部族連合有利の政治状況は続いていました。また、1994年の南北内戦では、両部族連合はアデン陥落のために国軍とともに戦いました。

第五回でお話しした「アルホーシー」の動きは、北部部族地域で拡大しているのですがこれには、ハーシェド、バキール双方の部族がいくつか合流しています。これは、サレハ政権に不満を持ち、同時にシェイク・アハマルにも不満を持つ勢力が存在することを示しています。このため、アルホーシー派の掃討作戦には、国軍のみならずアルホーシーに賛同しない北部部族勢力も加わっていたのです。

しかし、サレハ大統領とシェイク・アハマルの連携による北部地域の統治方法はシェイク・アハマルの死亡によって終わりを迎えます。 今回の一連の民主化騒動の中で、まず軍の中でサレハを支えていた「アリ・ムフセン・アルアハマル」司令官が、デモ隊支持を宣言したことは、ハーシェド部族連合からの一つのメッセージでした。同司令官は故シェイク・アハマルの家系です。そして、シェイク・アハマルを継いでハーシェド部族連合長になったサーディク・アハマルは、5月末にサレハ政権に対する支持を撤回し、首都サナアの真ん中で国軍と戦闘状態に入りました。

このことの持つ意味は重大です。仮にサレハ大統領がサウジから復帰してきても、これまでの北部部族からの支持はもはや期待できないからです。 ただし、だからといって北部部族や、サーディク・アハマルがこの国を率いていくのかというと、まずそれはあり得ません。なぜなら、北部部族の影響力が及ぶのは北部部族領域だけであり、現在の約2000万人の人口のうち、せいぜい300万人程度なのです。また、2月以来サナアで平和的な民主化運動を繰り広げてきた若者たちにとって、「部族」は前近代的な社会制度であり、「民主主義」とは相容れないと考えている人が多いからです。【佐藤寛 2011/6/24】

2011年6月22日水曜日

【イエメンはどこに行く・7】《南部分離派》

1990年の南北無血統一は偉業でした。しかし、同時に偉大な妥協の産物でもありました。サレハ大統領はこうした妥協工作には非凡な能力を示します。

統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度で、人口比では圧倒的に北が優勢でした。このため、大統領には北のサレハが就任し、副大統領と首相は南から出すことになります。また、これまで内戦を繰り返していたために、旧南北それぞれの秘密警察は「反体制派」に関するファイルを蓄積してきたのですが、もう国境紛争の心配がなくなったので、これらのはファイルは破棄されました。これは南北両政府間の信頼醸成のためには不可欠な措置でした。

妥協はたくさんあります。 国旗は旧南北イエメンの共通部分を取って上から赤白黒の三色旗になりました。首都は北のサナアで、アデンは「経済首都」と名付けられました。国歌は南のものが採用され、通貨もしばらくの間は両国のものが固定レートで相互に流通しました。統合によってなるべく失職する人が出ないように、閣僚の数は40人ほどに膨れあがり、大臣が北なら副大臣は南という具合にバランスに気を遣った人事を行いました。そして何よりも重大なことは、軍は統合されず南北それぞれの軍隊がそのまま残り、北の軍隊が南に、南の軍隊が北に配置されたことでした。

統合を機に複数政党制が導入され国会議員選挙も行われるようになりました。サレハ大統領の翼賛政党である「統合人民会議」には政府の主立った人たちが入っていますが、これ以外に北部部族勢力と一部のイスラム勢力が結びついた「イスラーハ」党が結成され、旧北部部族地域を中心に支持を獲得しました。他方旧南イエメンの支配政党だった「イエメン社会党」も生き残り、南部を中心に支持を得ていました。そしてこの両政党が全く正反対な主張を展開しはじめます。イスラーハは保守的でイスラム法(シャリーア)に則った憲法を主張したのに対して、イエメン社会党は社会主義的な色合いの強い憲法を求めます。

また、人口比で劣る南の人材に政治的なポストが与えられすぎると不満を漏らす北の人がいる一方で、首都がサナアになったためにアデンから単身赴任しなければならなくなった人たちもサナアは住みにくいと文句を言います。統合の熱気が冷めるにつれて、こうした不満、不信感が募っていきました。しかしサレハ大統領はこれまで通り明確に政治的イニシアチブは取らないままです。サレハ大統領は政敵を取り込み、対立する人々を妥協させることにはたけていますが、明確なビジョンを示して国を引っ張っていくことは不得意なのです。

1993年後半になるとイスラーハ党関係者によるイエメン社会党関係者の襲撃なども起こり、南出身のアルビード副大統領が「サナアでは身の安全が守れない」と言ってアデンに引きこもってしまいます。この背景には首都の地位を失い、「自由港構想」が打ち上げられながら全くアデンの開発に予算が回って来ないことに堪忍袋の緒を切らしたアデン市民の声がありました。このときにもカタールなどGCC諸国が調停に入り、サレハ大統領とアルビード副大統領がサナアとアデンの真ん中にあるタイズで和解会合を行ったりしました。

しかし、事態は好転せずそれぞれ敵地に配備されていた旧南北軍が別々の指揮系統で衝突をし始め、1994年5月4日に内戦が始まってしまいます。これは、1990年に軍を統一することを先延ばしにしたことの、必然的な結果であったと言えます。ただ、戦況は北側に有利で、1986年のアデン政変で追放されていたアリー・ナーセル前南イエメン大統領派も北軍に合流、さらにイスラーハ勢力と北部部族勢力も北軍に合流したために、6月末にはアデン以外は鎮圧されます。籠城状態になったアルビード派はアデンで「南イエメン国」の独立を宣言しますが、結局7月7日に陥落。アルビード副大統領、アッタール首相らはサウジに亡命して内戦は決着しました。

この内戦の結果、旧南の軍隊はすべて武装解除され軍事的な抵抗力を剥奪されてしまいます。これで内戦再発の可能性はほとんどなくなりました。アルビードに代わる副大統領にはアリー・ナーセル派のハーディー氏が就任します。内戦後、サレハ大統領は政治的、経済的に重要なアデンの不満をなだめるために頻繁にアデンを訪問し、かつ反乱分子を取り締まるために腹心の政治家をアデン市長に任命します。また、内戦後も現在に至るまで基本的に南出身の首相が続くのは南イエメンの人々の声を決して無視していないという姿勢を見せるためでしょう。

しかし懐柔策を示しても、基本的に統一国家における旧南イエメン地域の「軽視」は否定しがたく、旧南の諸州の知事に北の軍人が天下ってきて、好き勝手なことをして私腹を肥やすという不満も鬱積しています。また、武装解除によって失業した軍人たちは年金支払いの遅延などで、満足に家族を養えないという状況に追い詰められています。こうした人々は、数年前から南の地方都市でデモや示威行動を行うようになりました。時には道路を封鎖したり治安部隊と衝突したりという事件もしばしば報道されていました。これが、現在の「南部分離派」の動きの底流なのです。

今年(2011年)6月初めのサレハ大統領負傷後の権力の空白を利用して、旧南イエメンのいくつかの都市(特にラヘジ州、アブヤン州、ダーレア州など)で武装勢力が治安部隊から支配権を奪ったという報道がなされています。欧米メディアはこれを「アルカーイダ系」と説明していますが、部分的な支援関係はあるとしても基本は「南部分離派」の人々だと思います。そして、南部分離派はサレハ政権の崩壊のためには、どのような外部勢力とも協力するでしょうが、彼らがアルカーイダと共闘することなどあり得ません。アデンの市民がそんなことを望む理由はないのです。彼らは自分たちの力で自由港を再構築したいと考えているのです。グローバル経済に背を向ける政策などあり得ません。

私はサレハ大統領は、いずれかの段階で(望むらくは自主的に)退陣すると見ていますが、それによって現在の混乱が収まったとしても、旧南イエメンの人々の「統一国家」に対する失望には根深いものがあり、この問題に真剣に取り組まない限り統一イエメンの将来はありません。これは、イエメンにとってはアルカーイダ系の勢力が数百人程度いることとは比べものにならならいほどの重大問題であり、アラビア半島全体の安定にとっても無視できない問題なのです。
【佐藤寛 2011/6/22】

2011年6月20日月曜日

【イエメンはどこに行く・6】《南北イエメン分断史》

現在のイエメン政治における二大問題のもう一つは南部イエメン分離派です。この南部分離派の背景を理解するために、まず100年にわたる南北イエメン分断史をおさらいしておきましょう。

そもそも南北イエメンが分離したきっかけは、イギリスが作りました。19世紀前半にスエズ運河からインド洋に抜ける海路の要衝アデン港を保護領としていたイギリスは、自らの中東地域における権益を守るために、20世紀初頭にこの地域に名目的な宗主権を持っていたオスマントルコとアラビア半島分割条約を結びました。その分割線はアフリカの国境線同様きわめていい加減なもので、紅海の入り口バブアルマンデブ海峡からペルシャ湾のバハレーン島までを一直線に結んだのです。

しかし、その頃実際にイエメン北部を支配していたのは、イスラム教ザイド派のイマームであり、トルコではありませんでした。そしてイマームはイギリスに支配されている南部イエメンを含めたイエメン統一を目指していました。ところがこのイマームの頭越しにイギリスとトルコが勝手に南北イエメンを分断したわけです。以来、南北イエメンの統一はイエメン人の悲願となりました。

第一次世界大戦の敗戦でオスマントルコ帝国は凋落し、トルコの宗主権から離れた北イエメンは「イエメン・ムタワッキル王国」として国際社会に認知されました。一方アデンは「世界で2番目に船舶寄港数の多い港」となって大英帝国の拠点として栄えていたため、イギリスはアデンの周辺地域へも支配を拡大していき、南イエメン全域がイギリスの保護領となりました。

こうして第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、アデンはアラブ地域の先進近代都市となり、教育水準も向上して北イエメンとの国境地域(タイズ周辺)からも多くの移民が流入し始めました。アデンで教育を受けた人々の中には、さらにアデンから船に乗って世界に飛び出した人々も多く、イギリスのリバプール、アメリカのデトロイト、カリフォルニアなどにはこの頃から「イエメン人コミュニティー」が出来はじめます。他方、北イエメンでは鎖国政策が敷かれていたため、様々な側面で近代化が進まずアラブで最も遅れた国になってしまいます。こうして「進んだ南、遅れた北」という構図が成立します。

第二次世界大戦後、多くの英領植民地は独立しましたが、アデンの重要性からアイギリスは南イエメンを手放しませんでした。かたや、アラブ世界ではエジプトにナセル大統領が登場し、アラブ民族主義・アラブ式社会主義の理念を多くのアラブの若者に訴えました。これを受けて北イエメンでは1962年にイマームを打倒する軍事革命が発生し、サナアを首都とする「イエメンアラブ・共和国」が誕生します(9月26日革命)。このとき、革命政権はアデンもイギリスの手から奪って統一イエメンを実現しようとしていましたし、アデンにもこれに呼応しようとする勢力がありました。

しかしイギリスはアデン(南イエメン)の分離を許さず、かつイマーム王政が打倒されることに危機感を抱いたサウジアラビア、ヨルダンなどのアラブ王政国家が、逃げ延びたイマームを資金的・軍事的に支援したため、北イエメンでは「王政派対共和国派」の内戦状態になります。このため、革命政府は南イエメンのイギリスからの奪回に力を割くことが出来なくなります。

他方、アデンではブリティッシュ・ペトロリアム(BP)製油所の労働者などが中心となって反英独立闘争が活性化し、1963年には南北イエメン国境に近いアブヤンで最初の武力行動が始まります(10月14日革命)。当初イギリスはこうした動きを武力で押さえつけていましたが、最終的には労働党政権下でスエズ以南の植民地放棄を決断、南イエメンも1967年に独立するスケジュールが決まりました。イギリスは南イエメンの穏健派に政権を委譲しようとしていましたが、ナセル・エジプト大統領の支援を受けた社会主義者たちが独立直前にアデンの実権を握り、彼らを中心に11月30日に「アラブ唯一の社会主義国家」として南イエメンは独立します。

この時、すでに存在する「イエメン・アラブ共和国」に合流しようという動きもあったのですが、当のサナアは「王党派」の攻勢で包囲され、「共和国派」が陥落寸前という状況でした。この包囲は70日続いた共和国派最大の危機でしたが、ナセルのエジプトと、独立したばかりの南イエメンからの援軍を得て包囲を破ることができ、これを契機に王党派は衰退していきます。

こうして1969年ころまでには北イエメンの内戦は共和国派優勢で収束し、晴れて南北統一を考えることが出来ようになりました。ところがこの間に独立したばかりの南イエメンでは政治路線対立が続き、社会主義化政策が先鋭化したために、比較的穏健なサナアの政策とはどんどん乖離していきました。そして1970年代には数次の南北イエメン国境紛争・内戦が発生してしまいます。これは東西冷戦と無関係ではありませんが、朝鮮半島とは異なります。南イエメンは東側陣営ですが、北イエメンもソ連からもアメリカからも軍事支援を受けて「援助のオリンピック」状態を保っていたからです。

1983年を境に南北内戦は鎮静化し、北のサレハ大統領と南のアリー・ナーセル大統領との間で友好関係が築かれ、南北統一も議題に上るようになりました。ところが、アリー・ナーセル大統領の対米接近路線に対して南イエメンの支配政党「イエメン社会党」内で反対意見が強まり、1986年にアデンで内紛が起こり、アリー・ナーセルは失脚してしまいます(1月13日事件)。

南イエメン政権は、再度社会主義路線を強化しようとしますが、すでに東ヨーロッパの動揺は進み、1989年にはベルリンの壁が崩壊しました。東側陣営の後ろ盾を期待できなくなったイエメン社会党はこのままでは政権維持が困難と判断し、自らの影響力を守るために南北イエメンに踏み切ることにしたのです。これが、1990年5月22日。東西ドイツの統一よりも半年早い「無血統一」でした。

イエメン人の意向を無視したイギリスとトルコの国境線画定から約90年、悲願の統一を果たして新生「イエメン共和国」の大統領に就任したサレハ大統領は、こうしていったんは全国民のヒーローとなったのです。【佐藤寛 2011/6/20】

2011年6月18日土曜日

【イエメンはどこに行く・5】《アル・ホーシー派》

  アルカーイダよりも、イエメンの内政にとって重大な問題は二つあります。一つが北部の「アル・ホーシー派」の騒乱、もう一つが南部の分離独立派の活動です。まず、アル・ホーシー派について解説しましょう。

  イエメンの主要都市は首都のサナア(標高2300m)、南部の港町アデン(旧南イエメン時代の首都)、その中間にあるタイズ(標高1000m)、紅海沿岸の港町ホデイダ、東部ハドラマウトの港町ムカッラなどがあります。そのほかに北部のサウジとの国境近くにサアダという町があり、特に北部部族勢力の拠点として重要です。

  そして、サナアから山岳道路を通ってサアダに抜ける途上に「アル・ホウス」という町があります。アラビア語で「アル」は定冠詞、英語のtheに相当します。Howthの形容詞形はHowthy、すなわち「アル・ホーシー」は文字通りには「ホウス地方の」を意味する形容詞です。また、同時にその地方の出身者の名字のような使われ方をすることもあります。今回の一連の出来事は「アル・ホーシー」を名乗る家系の人が主導しているので「アル・ホーシー派」と呼ばれています。

  新聞などの報道では「イスラム過激派」とか「イスラム原理主義」とか書かれている例もあるようですが、どちらも正確ではありません。アル・ホーシー派は現在のサレハ政権の北部部族領域に対する政策に不満を持つ人々がイスラムの知識人である「アル・ホーシー」に共鳴してその旗の下に集まっている、というきわめてローカルな性格の集団です。

  現在のイエメン共和国は1990年に「イエメンアラブ共和国(北イエメン)」と「イエメン人民民主共和国(南イエメン)」が統一して出来たのですが、旧北イエメンは1962年まではイスラム教ザイド派のイマーム(聖俗両面の指導者)の支配下にありました。このザイド派というのは8世紀以来北部イエメンの支配的な宗派で、イエメンを支配した歴代イマームは基本的にこの宗派の最高権威です。そして、イマームはいくつかの有力家系の中から選ばれるのですが、その中の最有力家系「ハミード・アッ・ディーン」家の根拠地は「アル・ホウス」周辺でした。

  「アル・ホーシー」ももちろんこのザイド派の宗教知識人です。そして、ザイド派は、イスラム教のシーア派の一派です。このことから、欧米の単純な人々はすぐに「イランの陰謀」という筋書きを作るのですが、一口に「スンニ」と「シーア」と言ってもいろいろあります。旧北イエメンのサナアから北はほぼすべて「ザイド派」で、それ以外のタイズ周辺、紅海沿岸、内陸砂漠部はスンニ派に属する「シャーフィー派」に属し、人口はほぼ半々でした。旧南イエメンはほぼすべて「シャーフィー派」で、南北統一に伴い、宗派バランスでは「ザイド派」は過半数を割っています。しかし、サレハ大統領はザイド派です。

  しかし、イエメンの政治においては宗派(スンニとシーア)はほとんど意味を持って「いません」。サナアにはザイド派(シーア)の人もシャーフィー派(スンニ)の人も混在していますが、同じモスクで礼拝することが出来ます。ザイド派は「シーアの中で最もスンニに近い」といわれているのです。ですからイラクやイランの紛争を頭に置いて、ホーシー派がシーアなのでイランが介入している、などと単純に決めつけるのは危険です。繰り返しますが、サレハ大統領は北部部族の出身ですから、アル・ホーシーと同じザイド派なのです。

  もちろん「アル・ホーシー」は現在の国の宗教政策に不満はあるでしょうが、むしろ勢力を拡張したのは宗教的な主張の故ではなく、経済的にも政治的にもあまり優遇されていないと感じている北部部族地域の不満があるからです。これこそが、サレハ政権の危機なのです。サレハ大統領は北部部族地域については部族の代表者を通じて間接統治をしてきました。その代表者の筆頭が「アハマル家」でした。アル・ホーシー派の反乱は、このアハマル家を通じた間接統治が有効でなくなったことを示しています。そして、サウジとの国境地域には、サウジ王家から直接補助金をもらって軍備を整えている様々な部族がおり、こうした人たちが結集すれば国軍に対抗できる軍事力となるのです。

  アル・ホーシー派の反乱は2006年頃から本格化し、いくつかの地方都市を実質支配することもありましたし、2008年には首都サナアのすぐ北東の「バニー・ホシェイシ」地区まで進軍したこともあります。その後政府軍が盛り返して2010年はじめにはサアダ周辺で激しい攻防戦があり、サウジ軍もアル・ホーシー派を空爆したこともあるようです。この問題はサウジをはじめGCC諸国の懸念を招き、カタールなどの仲介で何度か休戦協定を結ぶところまで行きましたが、決着はしていません。そうこうするうちに2011年2月からの「民主化デモ」が始まったのです。

  現在アル・ホーシー派の動向はあまり報じられませんし、ひと頃に比べて軍事行動は下火にはなっているかもしれません(というより、国軍がそれどころではない状態でかまっていられないのでしょうが)。しかし、基本的にサレハ政権の北部部族地域政策に対する積み重なる不満がある状況は変わっていません。他方、サナアなどで行われている「民主化デモ」と「アル・ホーシー派」とはほとんど接点はないと思います。

  大切なことは、 どのような形であれ、「サレハ後」の時代がやってきたとしても、「アル・ホーシー派」問題は、「アルカーイダ」よりもイエメンの内政安定のためにはより重要な課題であるということを忘れないことだと思います。【佐藤寛 2011/6/18】

2011年6月15日水曜日

【イエメンはどこに行く・4】《アルカーイダ》

アメリカやイギリスにとって、イエメン問題はイエメン国民のために問題なのではありません。自国の安全保障のための問題なのです。それは、「アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)」と呼ばれる集団がイエメン南部に潜伏していて、そこから米英に対するテロ攻撃を仕掛けている、という認識があることに基礎をおいています。

2009年のクリスマスにアメリカで飛行機に自爆爆弾を持ち込もうとしたナイジェリア人が逮捕される事件がありましたが、その人物はイエメンのAQAPの基地で指導を受けたとされ、多くの英米の国民の間では「9.11」の恐怖がよみがえり、それ以来AQAPは欧米の諜報機関の危険リストの上位に躍り出たのです。

さらに2010年10月末にカタール経由でイギリスに届いたイエメンからの航空貨物の中に爆発物が発見されるという事件がありました。これもAQAPの犯行であるとされたため、「手遅れにならないうちにイエメン国内のアルカーイダのアジトを空爆すべき」との世論が高まっていました。

また、今回のイエメンでの政治的混乱で「アルカーイダがイエメンの政権を乗っ取るのではないか」という荒唐無稽な危機感をあおる人もいます。もちろん、テロへの恐怖感は理解できますが、今回のイエメン政治的混乱とAQAPとの関係は限定であることをまず理解する必要があります。また、欧米にとっての重大問題と、イエメン自身にとっての重大問題を混同することは、イエメン問題の適切な解決にとってはむしろ障害となるでしょう。イエメンにおけるアルカーイダ問題の特質を三点を指摘しておきます。

第一にイエメンの現在の政治的混乱とその解決にとってAQAPはマイナーな問題です。二月にデモが始まるまでのサレハ政権の最大の問題は「北部のアルホーシー派の反乱」と「南部の分離独立派の反乱」の二つでした(これらについては後ほどご説明します)。

これらはいずれもサレハ政権の国内掌握力の衰退を示す出来事で、この結果としてイエメン中南部の部族領域(アブヤン、シャブワなど)にAQAPが「秘密訓練施設」を確保できる状況が生まれたのです。しかし、いわゆるAQAPのメンバーはせいぜい数十人というのが大方の専門家の意見で、特定の地域を「占拠」しているのではなく、部族長の許可のもとに「居候」している状況でした。

第二に、サレハ政権にとってAQAPは脅威ではありませんでした。イラク、アフガニスタンから追い出されてイエメンに流れ着いたアルカーイダにとっては政府の掌握力の弱いイエメンは理想的な「安全地帯」で、弱体化するサレハ政権に続いてほしいと考えています。このためAQAPは基本的にはサレハ政権に対する攻撃は一切しておらず、あくまでも欧米への攻撃のための「訓練地」として機能していたので、イエメンの国内政治にはほとんど影響がなかったのです。

第三に、AQAPを問題視しているのは欧米であり、これを利用してサレハ大統領はAQAPの存在を理由にアメリカからの軍事援助を最大限引き出すことに尽力してきました。この軍事援助を利用して、アルホーシー派、南部分離派の掃討作戦を行うためです。

こうした状況下で、6月3日(金)の大統領府砲撃(空爆ではないと思いますが)によってサレハ大統領が重傷を負い、サウジに搬送されて手術を受けるという事態になりました。これによって、イエメンには「権力の空白」と呼ばれる状況が発生しています。欧米メディアはこれがこの権力の空白を利用して暴力的な勢力が伸張するのではないか、「内戦状態」に陥るのではないか、という懸念を表明しています。

これと同時にアメリカはイエメン領内での無人機による空爆を本格化しているのです。もちろん名目はAQAPの掃討です。しかしいかに弱体化しているとはいえ、イエメンは主権国家です。その国に外国の軍用機が、その国の政権の意向とは無関係に自由に作戦を展開しているのです。これはオサマ・ビンラーデン殺害作戦を、パキスタン政府の許可なしにパキスタン国内で実施したことと同様の構図です。すなわち、権力の空白を最大限利用しているのは米国ともいえます。

こうした軍事行動は、今後のイエメンの政治的安定、アメリカをはじめとする欧米諸国との関係に大きな禍根を残す可能性があります。もし、現在の政治的混乱の収束のために外国が介入するのであれば、必要なのは軍事介入ではありません。まずサレハ大統領の政権委譲プロセスを円滑化するための支援をし、次の政権の安定化を図りつつその政権と協力してAQAP対策を講じるべきでしょう。もちろん、そんな悠長なことを言っていられないという人もいるでしょうが、それはあくまでも外国人のエゴです。

イエメンが不安定なままでは、どれほど無人攻撃機でAQAPのアジト攻撃に成功しても、次から次へと反欧米メンタリティーを持つ人々を増やすだけで、むしろ潜在的な脅威が増すばかりであるということを、きちんと把握するべきではないでしょうか。
【佐藤寛 2011/6/15】

2011年6月14日火曜日

【イエメンはどこに行く・3】《次は誰か》

   そして、「次は誰か」です。これには全くめどがありません。まず第一に、誰もサレハ大統領がこれまでやってきたことを真似できません。皆それがわかっているので、誰もこの仕事をやりたくないのです。これが、サレハ政権が33年間続いてきた最大の理由です。

  軍を骨抜きにしておくこと、北部部族と一定の関係を維持すること、中部イエメンのテクノクラートを掌握すること、旧南イエメンの不満分子を間接的に抑えること、東部ハドラマウトの人々をつなぎ止めておくこと、そして流れ込んできたアルカーイダ系の人々が国内で悪さをしないようになだめておくこと。さらにサウジとはけんかしない程度に関係を維持し、必要なときにはお金をもらうこと。

  これらをサレハはそれぞれの仲介的な役割を担う人を使いながらやってきたのです。サレハ自身の言葉によれば、イエメンを統治することは「蛇の頭の上でダンスを踊ることに等しい」のです。(Victoria Clark "Yemen: Dancing on the heads of snakes" Yale Univ.Press, 2010)。ですから、仮にサレハが退陣しても誰も蛇の頭の上でダンスを踊る役割はしたいと思っていないのです。

   サレハは、シリアのハフェズ・アサド前大統領が息子に大統領職を禅譲することに成功したことを見て、またムバラクも息子に大統領職を息子に譲ろうとしているのを見て、自分も息子アハマドに継がせようと思っていたかもしれません。しかし、仮にそれが出来たとしても、アハマドが成功する確率は限りなく低かったでしょう。アハマドは父親が持っている「ネットワーク」を持っていないからです。今回の一連の経緯でこの可能性が排除されることは、イエメンにとっては幸いです。絶対失敗するシナリオを取らずに済むからです。
 
   ハーディー副大統領が、暫定政権を組織したとしても、同じことです。彼は旧南イエメンの代表であることから、北部部族との交渉はまず出来ません。サウジとの交渉も出来ません。1981年にサダト大統領が暗殺されたときに、ムバラク副大統領が大統領になりました。このときは、ムバラクは無名で指導力が不安視されましたが、軍を掌握していたことでそれ以後30年間の政権を維持できたのです。
 
  ところが、イエメンでは軍を掌握している人はいません。今回の争乱の中で3月に腹心と言われていた第一師団司令官(アリ・モフセン・アルアハマル)がデモ支持を表明しましたが。まだ軍は一応大統領の指揮下にあります。各部隊の司令官だけはサレハと個人的につながっているからです。
 
  もしも、政府が組織的に動いているなら、トップが変わっても組織は継続的に活動できますが、そうでない場合(イエメンの軍がそうですが)は、トップが変わったら大混乱になるだけです。
 
  北部部族については、5月後半からサレハ自身の出身部族であるハーシェド部族連合の連合部族長サーディク・アルアハマルが公然と反旗を翻し、あっという間に一部の政府機関を占拠しました。この程度の軍事力を北部部族が保持していることは明らかだったので驚くことはないのですが、アハマルは、サレハのやり方に怒っているのであって、自分が大統領をやろうなどとは露ほども思っていないでしょう。

  そもそも、そんなことを言い出したら、これまで三ヶ月以上民主化要求デモを続けてきた学生たちが黙っていないでしょう。野党連合は今回の一連の動きの中でサレハに圧力をかけてきましたが、それを率いる指導者はいません。所詮烏合の衆です。

  また、今回の大統領府攻撃を誰がやったのかも謎ですが、サレハが負傷してサウジに出国したことを反サレハ派の人々は皆喜んでいますが、これでサレハが暗殺されたとしたらこれまでの民主化運動の意味はほとんど失われてしまいます。
 
  現時点では、サレハ後のこの国の舵取りをどうするのか。全くめどが立ちません。もちろん、憲法の規定に則りハーディー副大統領が暫定政府を組織することが最も穏当です。それで一年程度はしのげますが、その間に次の「国の姿」を模索しなければならないことになるでしょう。
【2011/6/14】

【イエメンはどこへ行く・2】《大きな流れ》

   まず、今回のイエメンでの一連の出来事を、単にアラブの春の連鎖反応だと考えるのは正しくありません。イエメンにはイエメンに固有な政治の流れがあるからです。

   私はすでに5年くらい前から「サレハ政権の行き詰まり」を指摘してきました。サレハ政権は、様々な利害を持つ諸勢力をとにかくまとめて、国としてのまとまりを維持することにはきわめて長けています。1990年にベルリンの壁が崩壊した時に、無血で南北イエメンの統一を達成したのはその一つの成果です。もちろん、いろいろな人に妥協を積み重ねさせることの無理が1994年の南北内戦につながったのですが、それも武力で制圧し、旧南イエメンの保守的勢力であるハーディー氏を副大統領に据えて、統一国家を維持してきました。

  しかし、サレハ政権の最大の弱点は、「政策を打ち出せない」ことです。特に経済政策、開発政策には全く方向性を打ち出せないままにこれまで33年間を費やしてきました。1978年にガシュミ前大統領が爆死して政権を継いで以来、旧南イエメンとの紛争で1980年代前半は推移し、後半は石油が発見されたのでこの金の使い道だけ考えればよく、1990年のイラク危機の時には湾岸諸国に見放されても欧米からの援助でしのぎ、1994年の内戦を乗り越えるまでは、それでも良かったのです。

   しかし、1994年以降は「開発政策」が必要だったのです。それが打ち出せなかったのは、「妥協の名人」サレハ政権の宿命です。長期的な視点に立って物事のプライオリティー付けをし、政策目標を掲げて様々なステイクホルダーの利害を一致させる、ということはサレハ政権には望めません。

  それでも、石油収入がありアメリカが軍事援助を続けている限りは延命できたし、2000年代前半まではそれなりの建設ブームもあったので、人々は我慢してきました。しかし、この五年ほどはサナアの表面的な活況をよそに、地方部の衰退は進み、特に旧南イエメンはアデンも含めてほとんど「無視」されてきたのです。これでは国は進みません。

  サレハ大統領自身も、自分の限界は知っていると思います。サナアに壮大な「アリー・アブダッラー・サレハ」モスクを建立したのを機に本当は引退すべきだったのです。国民もそれなら「名誉ある引退」を拍手で迎えたでしょう。しかし、それは出来なかった。なぜなら後継者がいないからです。これが「手詰まり」。

  サレハ自身も、国民もどうやってこの手詰まりから抜け出せるのか、見通しがなかったのです。私自身も見通しが見えませんでした。ところが、「アラブの春」です。これなら、暗殺されずに引退できるのです。サレハ大統領はこのシナリオに、基本的に乗るつもりがあるはずです。それが唯一の「出口」だということを、彼自身もわかっているから。つまり、現在起こっていることは、手詰まり状態にあったイエメンにとっては「最も望ましいシナリオ」なのです。これが大きな流れです。

  問題は、「退陣の仕方」と「次は誰か」です。退陣の仕方として、6月3日にあったような「大統領府攻撃」などによる「暗殺」は最悪です。なぜなら、サレハ政権に依存している利害関係者がそれを理由に次の政権に対する徹底抗戦をする理由になってしまうからです。あくまでもサレハ自身の意志による「退陣」でなければなりません。その意味で、サレハがサウジで治療を受けた後、いったん帰国したいと考えているのは理にかなっているのです。
 
  繰り返しますが、イエメン史の大きな流れの中で今回の争乱は、これまでのシナリオにはなかったウルトラC的な方法であれ、暗殺でない政権交代に向かっているという意味でイエメンにとっては最も望ましいシナリオで進行しており、従って外部者が過度に騒ぎ立てる必要はないということを指摘しておきたいと思います。【2011/6/13】

【イエメンはどこに行く・1】《アラブの春》

【イエメンはどこに行く・1】《アラブの春》
   2011年1月に、チュニジアのベン・アリ大統領が民衆の抗議デモを受ける形で国外脱出し、23年間の独裁政権が崩壊したことは、これまでの中東・アラブの政治常識を覆したという意味でまさに「革命」というにふさわしい出来事でした。一部の人々はこれを「ジャスミン革命」と呼んでいるようですが、その後これがエジプトにも波及して2月にムバラク大統領が30年にわたる政権を手放さざるを得なくなりました。これまた、大方の中東専門家が予想さえしなかったという意味で革命的な出来事です。

  こうした展開を見た他のアラブ諸国の人々は一種の興奮状態に陥り、各国に民主化要求の市民デモが飛び火します。この一連の動きを「アラブの春」と呼ぶ人もいます。おそらく1968年のチェコで起こり、ソ連軍の軍事介入で鎮圧された改革運動を「プラハの春」を念頭に置いたネーミングでしょう。

  しかし、「アラブの春」の展開はそれぞれの国ごとに大きく異なっており、単純にチュニジア→エジプト→次の国というようなドミノが自動的に起こるわけではありません。リビアの状況はカダフィ氏が強固に抵抗することで泥沼化し欧米諸国が軍事介入するというとんでもない事態に発展していますし、シリアもアサド・ジュニアが弾圧志向を強めて「政府対人民」という悲惨な状態になりつつあります。バハレーンの争乱は、パトロンであるサウジが軍事介入して押さえ込んでしまいました。
  
  では、イエメンはどうなるのでしょう。事態は流動的ですが、イエメン専門家と名乗るからなは知らんぷりもしていられませんので、これからしばらくこの問題についての、私の考えを述べてみたいと思います。【佐藤寛・2011/6/13】

2011年5月12日木曜日

珈琲がやってきた


モカコーヒーを愛し、モカコーヒーに一生を捧げたといっても過言ではない故標交紀(しめぎ・ゆきとし)氏=吉祥寺の「珈琲自家焙煎店もか」店主が蒐集したコーヒー関連工芸品・美術品が中近東文化センター附属博物館で展示されております。










・展示場:中東文化センター付属博物館(The Museum of the Middle Eastern Culture Center in Japan)
三鷹市大沢3‐10‐31 JR武蔵境よりバス 10分「西野」下車
電話:0422-32-7111 
・展示期間: 9月25日(日)まで
・開館時間:10時~17時
・休 館 日:月曜日~木曜日(祝祭日は開館、振り替え休日なし)
・入 場 料:1000円  高校生・65歳以上 500円 中学生以下 無料
  


ご興味・ご関心のある方はお出かけ下さい。


日本・イエメン友好協会
(ワタル株式会社)
西尾 法人担当理事

2011年5月11日

2011年5月6日金曜日

ウサマ・ビン・ラーディンの殺害に伴うテロ攻撃に関する情報

NGO団体の皆様

ウサマ・ビン・ラーディンの殺害に伴うテロ攻撃に関する情報を以下のとおりお知らせします。

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【外務省からのお知らせ】

ウサマ・ビン・ラーディンの殺害に伴うテロ攻撃に関する注意喚起(5月4日現在)

1.5月1日(現地時間)、オバマ米国大統領は演説で、米国の作戦により国際テロ組織アル・カーイダの指導者ウサマ・ビン・ラーディンをパキスタンで殺害、その遺体を確保した旨発表しました。

2.その一方で、米国は、最近のパキスタンにおける対テロ活動を受け、米国人・米国権益などに対する報復テロの可能性が懸念されることから、海外に渡航・滞在する全ての自国民に向け、注意を喚起する危険情報を発出しています。

3.つきましては、過去に欧米権益に対する攻撃が発生した地域、とりわけウサマ・ビン・ラーディンが殺害されたパキスタンをはじめとしてアル・カーイダ本体または関連組織が活動する地域において米国を中心に広く欧米権益がテロ攻撃を受ける可能性が懸念されるため、これらの地域への渡航を予定されている方及び滞在されている方は、現地の情勢に十分注意し、最新の治安関連情報を入手するよう努めてください。特に、テロの標的になりやすい多くの人が集まる場所(観光地、米国系有名ホテルやファースト・フード店を含む欧米関連施設、混雑するカフェやレストラン、ショッピング・センターやマーケット、カジノ、ディスコ、駅やバス・ターミナル等)、欧米の在外公館や政府関連施設(政府機関、軍・治安関連施設)にはできる限り近づかない、また、近づく場合であっても、短時間で効率的に用事を済ませ、常に周囲の状況に注意を払い、不審な状況を察知したら、速やかにその場を離れるなど安全確保に一層の注意を払ってください。また、不測の事態が発生した場合の対応策を再点検し、状況に応じて適切な安全対策が講じられるよう心掛けてください。

4.また、万一に備え、海外渡航前には家族や友人、職場の同僚等に日程や渡航先での連絡先を伝えておくとともに、テロ事件等の不測の事態に遭遇した際には、現地の日本国大使館又は総領事館に速やかに連絡を取るようお願いします。

5.外務省では、「海外安全ホームページ」(http://www.anzen.mofa.go.jp/ ) において「スポット情報」、「危険情報」等を掲載し、世界各国・地域毎のテロ情勢や注意事項をお知らせしていますので、海外に渡航される方におかれては、渡航前にこれら情報を参照してください(パキスタンの一部地域、アフガニスタン全土に危険情報「退避を勧告します。渡航は延期して下さい。」が発出されています)。
なお、爆弾事件・誘拐に関しては、以下も併せて御参照ください(パンフレットは、 http://www.anzen.mofa.go.jp/pamph/pamph.html に記載)。
(1)2010年6月3日付広域情報「爆弾テロ事件に関する注意喚起」
(2)パンフレット「海外旅行のテロ・誘拐対策」
(3)パンフレット「海外へ進出する日本人・企業のための爆弾テロ対策Q&A」
(4)パンフレット「海外における誘拐対策Q&A」

  
(問い合わせ先)

○外務省 海外安全ホームページ:
 http://www.anzen.mofa.go.jp/
 http://m.anzen.mofa.go.jp/mbtop.asp (携帯版)

以上

連絡まで

日本・イエメン友好協会
手島専務理事
2011年4月4日

2011年4月19日火曜日

第13回アラブ・チャリテーバザー(延期)は中止

駐日アラブ大使夫人の会より連絡がありました。
先日(3月27日)に「延期」とお知らせしました駐日アラブ大使夫人の会主催の「アラブ・チャリティバザー」は現下の状況に鑑み中止と決定しました。
既にお買い上げいただいた入場チケットの収益は全額日本赤十字社を通して東北関東大震災被災地に寄付したいと思います。
ご賛同頂ければ幸甚です。

また、返金をご希望の方には払い戻しをさせていただきますので、お買い上げの各大使館までご連絡ください。

駐日アラブ大使夫人の会
(担当大使館:駐日オマーン大使館)

注:駐日イエメン大使館より入場券を受け取った方かは破棄してください。
  日本・イエメン友好協会

4月7日 アラブ外交団からのメッセージ

在京アラブ外交団より今回の東日本大震災に伴い、日本国民に次のようなメッセージが当協会に寄せられました。(4月7日)

この度の東日本大震災に際し、在京アラブ外交団を代表致しまして、日本を襲ったこの悲劇に被災されたすべての方々に深く哀悼の意を表し、また負傷された方々に心よりお見舞い申し上げます。我々は、この偉大な日本国民の皆さまが、被災された地方を強い忍耐力と強固な意志で復旧できると確信しております。
この困難な時に、私たちの心はいつも皆さまとともにあるということを忘れないでください。

在京アラブ外交団団長
パレスチナ大使
ワリード・シアム

以下オリジナル(アラビア語)メッセージ

2011年4月5日火曜日

駐日イエメン大使の交代について

駐日イエメン大使館より駐日大使の交代の連絡がありました。

Mr.マルワン・ノーマン大使の辞任に伴って三等書記官として大使館に赴任していたMr.ターレック氏が新任大使が赴任するまで臨時代理大使として就任しました。

H.E. Mr.Marwan A.moman / Ambassador Extraordinary &
                     Plenipotentiary
           ↓
H.E. Mr.Tareq Abdullatif Abdulla Motahar / Charge de' affairs a.i

以上

連絡まで

日本・イエメン友好協会
手島専務理事
2011年4月4日

2011年3月31日木曜日

在イエメン日本国大使館の一時閉館

外務省よりの連絡です。

在イエメン日本国大使館業務は3月16日より下記の案内の通り、在UAE日本大使館(アブダビ)で業務をする事に成りました。 

在イエメン日本国大使館の一時閉館(平成23年3月16日)

1.在イエメン日本国大使館は,イエメンにおける在留邦人の退避の側面支援を行い,ほとんどの邦人が出国しました。本16日(水曜日)をもって,治安情勢が悪化していることから,同大使館を一時閉館し,在アラブ首長国連邦日本国大使館内において,その業務を継続することとなりました。

2.在イエメン日本国大使館のアラブ首長国連邦における連絡先は下記のとおりです。
【連絡先】在イエメン日本国大使館(在アラブ首長国日本国大使館内)
      所在地:Abu Dhabi, United Arab Emirates (P.O. Box 2430)
      電話 :国外からは(国番号971-2)443-5696
      FAX :国外からは(国番号971-2)443-4219

3.なお,現在,イエメンには,「退避を勧告します。渡航は延期してください。」の渡航情報が発出されていますので,同国への渡航を予定している方は,目的のいかんを問わず渡航を延期してください。

現在のイエメンの「海外安全情報」はこちら
http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo.asp?id=043#header

以上

連絡まで

日本・イエメン友好協会
手島専務理事
2011年4月1日

2011年3月27日日曜日

第13回アラブ・チャリテーバザーの延期とアラブデーの中止

協会員の皆様

先の地震の影響はありませんでしたか?
まだまだ余震が続きそうですので、充分に気をつけてお過ごしください。

さて、標記の第13回アラブ・チャリテーバザー(4月10日)は延期となり、アラブデー(4月12日)は中止となりました。詳細は下記の通りです。

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「アラブ・チャリティバザー」延期のお知らせ

駐日アラブ大使夫人の会より連絡がありました。
この度の震災で被害を受けられた皆さまに心からお見舞い申し上げます。
4月10日開催予定だった駐日アラブ大使夫人主催の「アラブ・チャリティバザー」は延期となりました。
既に入場チケットをご購入のかたは、そのままチケットを保管くださいますようお願い申し上げます。

とのことです。
日程等が決まりましたら、ホームページでも改めてご案内致します。

日本アラブ協会:03-3798-3515
担当:森
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簡単ですがご案内まで
今後ともよろしくお願いいたします。

日本・イエメン友好協会
手島 専務理事
H23年3月26日

2011年3月11日金曜日

第13回アラブチャリテーバザー


やっと暖かくなってきた今日この頃ですが、まだまだハッキリしない天候が続いています。風邪など引かぬ様にご注意ください。

さて、本年も標記のバザーの案内が駐日イエメン大使館よりあり、当協会に5枚ほど招待入場券がきました。(希望者は至急連絡ください。)

なお、1枚1000円にて当協会*でも販売をしています。(5枚の割り当てに外れた方で入場希望者は協会に申し出てください。販売をします。)
詳細は添付のパンフの通りですが、日にち等は下記の通りです。

第13回アラブチャリテーバザー

日 時:4月10日 11:00~17:00
会 場:アークヒル (Karajan Place)
入場料:1000円
    入場券の販売希望者は伊藤事務局長まで連絡をして下さい。
    メール:meguro-ito@t02.itscom.net
    電話:080-2012-9542

簡単ですがご案内まで
今後ともよろしくお願いいたします。

手島 専務理事
日本・イエメン友好協会

2011年2月25日金曜日

モカ・コーヒーハウス(喫茶店)の開店



3月25日15時よりモカ・コーヒーハウス(喫茶店)招待者の為のお披露目がありました。
協会として出席いたしました。

ゲストとして、大使閣下をはじめイエメンからイエメン・日本友好協会のアドバン会長の出席がありました。

我が協会からは手島専務・伊藤理事・マルワン理事・三谷代理・横尾氏・麻生さん・大城さんの参加がありました(添付写真の通り)。


本日参加されなかった皆様には是非時間を見て訪問してください。
協会よりお祝いの蘭をお贈りいたしました。

モカ・コーヒーハウス(喫茶店)の場所は下記の通りです。    
住所:渋谷区猿楽町25-1 (東横線代官山駅より3分です)  
電話:03-6427-8285

以上

手島専務理事
日本・イエメン友好協会
2011年2月25日

2011年1月12日水曜日

民主党日本イエメン友好議員連盟の発足のお知らせ

年末に民主党の友好議員連盟が発足しました。
名簿が手に入りましたのでお知らせいたします。(順不同敬称略)

会 長: 武正 公一
副会長: 川内 博史
幹 事: 玉木 雄一郎
事務局長:大野 元裕

メンバー
     藤田 幸久
     阿知波吉信
     浜本 宏
     本多 平直
     白眞 薫
     山根 隆冶

以上

手島専務理事
日本・イエメン友好協会

2011年1月11日火曜日

謹賀新年

                                       2011年 正月
謹賀新年
本年もよろしくお願いいたします。


手島専務理事
日本・イエメン友好協会