2011年6月28日火曜日

【イエメンはどこに行く・9】《ハドラマウト・前編》

ハドラマウトは、イエメンに19ある州のうち最大の面積を持つ州で、イエメンの東部のかなり大きな部分を占めていますが、定住地は海岸沿いと内陸のハドラマウト渓谷に限られるので人口はそれほど多くありません。オマーンとの間にマハラ州がありますが、こちらはさらに人口密度の少ない地域です。

ハドラマウト人は、イエメン国内の他の地域とは少し異なる独自の歴史とアイデンティティーを持っています。 アラブの血統学上ハドラマウトの人々はやはりカハタン(純粋アラブ)の系譜に位置づけられますが、ハドラマウト以西のイエメンの人々とは、かなり早い段階で枝分かれした系譜を持っており、その始祖の名前が「ハドラマウト」です。

そしてシバの女王で有名な古代南アラビア王国の時代(紀元前10~紀元1世紀)には山岳部イエメン、内陸砂漠部イエメンとともに南アラビアの一部を構成していましたが、それ以降は山岳部イエメンとは緩やかなつながりしか持っていませんでした。 紀元(正確にはキリスト歴というべきですが)7世紀にメッカで預言者ムハンマドがイスラム教を唱え始めると、ハドラマウトの人々は早い段階でイスラム教に帰依し、イスラム帝国が北アフリカに進出したときにはその先兵となって活躍したのがハドラマウト人だったと言われています。

その後、イスラム帝国の首都がバクダードにあったアッバース朝期(8世紀~13世紀)には『千夜一夜物語』の「シンドバードの冒険」のようにインド洋の航海をアラブ商人が支配する時代がやってきます。このアッバース朝末期にインド・東南アジア方面にイスラム教を広めたのは、ハドラマウト商人たちだったのです(ハイデラバードの語源がハドラマウトだという人もいます)。東南アジアにイスラム王国が発生するのは13世紀以降ですが、その王家の多くはハドラマウト系のアラブ人と現地の女性との混血家系です。ちなみに、現在のブルネイ王家はハドラマウトを出自としています。

ハドラマウトからこのように多くの人が海外に出て行く原因は人口圧力です。ハドラマウト渓谷は降雨のほとんどない乾燥気候で、アラビア半島内陸部・山岳部に降った雨がインド洋に流れ出す涸れ川(ワーディー)に依存したオアシス農業しか産業がないため、人口が増えれば外部に出ていくしかないのです。このため、ハドラマウト人(ハドラミー)は世界的な視野を持ち、商売に長けているとされています。一部では「アラブの中のユダヤ人」と呼ぶ人もいますし、昭和初期の日本人アラビストは「アラブの近江商人」と呼んでいたこともあります。

19世紀前半にイギリスが軍事力でアデンを占領した頃、ハドラマウトにはカーイティー、カシーリーの両スルタン王国がありました。ハドラマウトがイギリスの保護領になって以降も独自の国境を維持することが認められており、1968年の南イエメン独立以前にこの地域を旅行するためには、スルタン王国のビザを取得しなければならなかったそうです。

また、シンガポール、アチェ、ジャカルタ、スラバヤなどの東南アジアの港湾都市には現在に至るまでハドラマウト系の家系が少なからずあります。こうした人々はアラブ名を名乗るばかりでなく、息子が13-14才になると数年間「故郷」ハドラマウトに留学させ、アラビア語とイスラム教を徹底的にたたき込ませ、さらにメッカ巡礼もして「ハジ」の称号を得て、一人前の「アラブ人」になって里帰りさせるという習慣が今でも残っています。ハドラマウト渓谷のオアシス都市の一つタリームにはこうした海外ハドラミーの子弟が通う寄宿舎生学校があり、そこにはアフリカからやってきた混血のハドラミー留学生もいます。こうした教育施設が、イスラム原理主義的な思想が世界に広まる拠点の一つになっているのではないか、と言う人もいます。

第二次世界大戦後、まだ南イエメンがイギリス保護領だった頃に「ハドラマウ独立」を目指す動きは、知識人を中心に、なんとインドネシアのジャカルタで旗揚げしたのだそうです。また、メッカに巡礼に行ってそのまま居着いたハドラミーの中にはサウジの港湾都市ジェッダを根拠にビジネスで成功し、サウジの大財閥に仲間入りした家系も少なくありません。オサマ・ビンラーデンの属する「ビン・ラーデン」家もこの例です。このように海外で成功したハドラミーは、決して故郷とのつながりを切らずに故郷に送金したり投資したりするので、社会主義政権下の南イエメン時代、アデンよりもハドラマウトの方が社会インフラは充実していたとされています。

ハドラミーは他のイエメン人と比べると温和で、争いを好まず、教育程度も比較的高いのですが、他のイエメン人からは「けち」と陰口をたたかれています。1990年の南北統一でアデンの社会主義政権が崩壊して以降、サウジのハドラマウト系財閥は一時競ってアデンに投資をしました。このためアデンにはサナアよりも設備の良いホテルや、大きなショッピングセンターも出来ています。ただ、アデン自由港の計画がちっとも進まないので、開店休業状態ですが。さて、こうしたハドラミーたちは、今後のイエメンにとってどんな役割を担うことになるのでしょうか。それを次回考えてみたいと思います。
【佐藤寛 2011/6/27】

2011年6月25日土曜日

【イエメンはどこに行く・8】《北部部族連合》

サレハ大統領の権力基盤は、国軍と北部部族勢力からの支持でした。イエメン人はすべてノアの曾孫にあたるカハターンの子孫で、この血筋は「正統アラブ」であることをイエメン人は誇りに思っています。そしてイエメンの「部族」は基本的にこのカハターンから枝分かれした誰かを祖先に持つ父系集団です。ですから、イエメン人は人種的(エスニック)にも、言語的にもそしてイスラムという宗教的にも共通の基盤を持っています。

アラブの血統学の立場からは、旧北イエメン地域に住むイエメン人はハーシェド部族連合、バキール部族連合、マドハジ部族連合の三つのどれかに属していることになっています。このどれにも属さない人は、混血アラブであり社会的には少し低く見られるのです。ハーシェド、バキールはサナアからサアダ(サウジとの国境近くの町)にかけての山岳地に住んでいてイスラム教ザイド派です。マドハジは紅海沿岸のティハマ地方と内陸の砂漠地帯に住んでいて、イスラム教シャーフィー派です。系図上ハーシェドとバキールは兄弟ですが、彼らの子孫たちは宿敵関係にあります。

1962年の革命まで北イエメンを支配していたイマームは、血統的には預言者ムハンマドの血を引く宗教知識人家系であり、イエメンの部族には属していません。こうした宗教的な権威が国を支配するためには軍事力を持つ部族の支持が不可欠です。ハーシェドとバキールは「イマームの両翼」と呼ばれて、イマーム王国を支えていたのです。1962年の革命直後は、両部族連合ともイマーム側について共和国派の軍隊と戦っていたのですが、時間が経つにつれてそれぞれの部族連合から共和国側につく部族が出てきて、1967年のサナア包囲の失敗後にイマーム派は崩壊しました。

部族連合というのは、その下にさらに枝分かれした部族(カビーラ)がいくつもあるからです。一般の部族民にとって一番大切なのは、この部族(カビーラ)のアイデンティティーで、自分の名前の最後に部族名をつける人が多いのもこの現れです。部族(カビーラ)の人口規模は様々ですが、基本的に北イエメンの行政単位である郡(州の下部単位)は、おおむね部族領域に重なっています。

いくつかの部族はその下にさらに枝分かれした肢族があり、これらを含めると北イエメンには約600の部族があると言われています。またイエメンには『部族辞典』が存在していて、それぞれの部族の創始者は誰で、どのような歴史をたどってきて、現在どの地域に住んでいるかが書かれています。

所属する部族の数、人口はバキール部族の方が大きいのですが、共和国成立以降はハーシェド部族連合が政治的に優勢でした。その最大の要因は部族連合長であったシェイク(部族長の尊称です)・アブダッラー・アル・アハマルの政治力にありました。シェイク・アハマルは共和国派の部族をとりまとめて1970年代初めにすでに部族連合長の地位を固め、サナアの共和国政府に大きな発言力を持っていました。

1974年6月13日にに軍事クーデターで第三代大統領に就任したハムディ大統領は、知識人でもありアラブ社会主義的な思想を背景に中央集権的な近代国家作りのビジョンを持っていました。このため、特にサナア以南の人々に人気が高かったのですが、部族勢力の政治的発言権を制限しようとしたために、シェイク・アハマルは機嫌を損ねてしまいましす。シェイク・アハマルは北部のアルホウス近辺の自らの部族領域にたてこもり、正規軍との間に一時戦闘状態になってしまいます。こうして政府と北部部族の関係が緊張する中、1977年にサナアの軍指令本部の中でハムディ大統領は爆殺されてしまいます。

この爆殺の背景には部族勢力がいるのではないかと言われていますが、真相は闇の中です。ハムディを継いだ第四代大統領ガシュミはサナアの北方部族出身の軍人ですが、翌1978年に南イエメン特使の鞄に仕込まれた爆弾によって暗殺されます。これを契機に南北イエメンは再度内戦になるのですが、ガシュミの後第五代大統領に就任したのがサレハでした。当時サレハの政治基盤は脆弱で、シェイク・アハマルら北部部族の支持が唯一の頼りでした。サレハ自身はサナアの南のサナハーン部族の出身ですが、サナハーン部族はハーシェド部族連合に属しており、シェイク・アハマルは「若造」サレハ大統領(就任時はまだ30代です)にとっては、自分の属する部族連合長でもあり、百戦錬磨のベテランなので北部地域の問題は基本的に彼に依存することになります。

こうしてサレハ大統領とシェイク・アハマルとの二人三脚が始まり、1990年以降の統一イエメンではシェイク・アハマルは「イスラーハ」党党首であり、また国会議長の要職にも就いていました。この間、バキール部族連合の側からの「自分たちの部族領域に開発プロジェクトが少ない」などの不満はありつつも、ハーシェド部族連合有利の政治状況は続いていました。また、1994年の南北内戦では、両部族連合はアデン陥落のために国軍とともに戦いました。

第五回でお話しした「アルホーシー」の動きは、北部部族地域で拡大しているのですがこれには、ハーシェド、バキール双方の部族がいくつか合流しています。これは、サレハ政権に不満を持ち、同時にシェイク・アハマルにも不満を持つ勢力が存在することを示しています。このため、アルホーシー派の掃討作戦には、国軍のみならずアルホーシーに賛同しない北部部族勢力も加わっていたのです。

しかし、サレハ大統領とシェイク・アハマルの連携による北部地域の統治方法はシェイク・アハマルの死亡によって終わりを迎えます。 今回の一連の民主化騒動の中で、まず軍の中でサレハを支えていた「アリ・ムフセン・アルアハマル」司令官が、デモ隊支持を宣言したことは、ハーシェド部族連合からの一つのメッセージでした。同司令官は故シェイク・アハマルの家系です。そして、シェイク・アハマルを継いでハーシェド部族連合長になったサーディク・アハマルは、5月末にサレハ政権に対する支持を撤回し、首都サナアの真ん中で国軍と戦闘状態に入りました。

このことの持つ意味は重大です。仮にサレハ大統領がサウジから復帰してきても、これまでの北部部族からの支持はもはや期待できないからです。 ただし、だからといって北部部族や、サーディク・アハマルがこの国を率いていくのかというと、まずそれはあり得ません。なぜなら、北部部族の影響力が及ぶのは北部部族領域だけであり、現在の約2000万人の人口のうち、せいぜい300万人程度なのです。また、2月以来サナアで平和的な民主化運動を繰り広げてきた若者たちにとって、「部族」は前近代的な社会制度であり、「民主主義」とは相容れないと考えている人が多いからです。【佐藤寛 2011/6/24】

2011年6月22日水曜日

【イエメンはどこに行く・7】《南部分離派》

1990年の南北無血統一は偉業でした。しかし、同時に偉大な妥協の産物でもありました。サレハ大統領はこうした妥協工作には非凡な能力を示します。

統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度で、人口比では圧倒的に北が優勢でした。このため、大統領には北のサレハが就任し、副大統領と首相は南から出すことになります。また、これまで内戦を繰り返していたために、旧南北それぞれの秘密警察は「反体制派」に関するファイルを蓄積してきたのですが、もう国境紛争の心配がなくなったので、これらのはファイルは破棄されました。これは南北両政府間の信頼醸成のためには不可欠な措置でした。

妥協はたくさんあります。 国旗は旧南北イエメンの共通部分を取って上から赤白黒の三色旗になりました。首都は北のサナアで、アデンは「経済首都」と名付けられました。国歌は南のものが採用され、通貨もしばらくの間は両国のものが固定レートで相互に流通しました。統合によってなるべく失職する人が出ないように、閣僚の数は40人ほどに膨れあがり、大臣が北なら副大臣は南という具合にバランスに気を遣った人事を行いました。そして何よりも重大なことは、軍は統合されず南北それぞれの軍隊がそのまま残り、北の軍隊が南に、南の軍隊が北に配置されたことでした。

統合を機に複数政党制が導入され国会議員選挙も行われるようになりました。サレハ大統領の翼賛政党である「統合人民会議」には政府の主立った人たちが入っていますが、これ以外に北部部族勢力と一部のイスラム勢力が結びついた「イスラーハ」党が結成され、旧北部部族地域を中心に支持を獲得しました。他方旧南イエメンの支配政党だった「イエメン社会党」も生き残り、南部を中心に支持を得ていました。そしてこの両政党が全く正反対な主張を展開しはじめます。イスラーハは保守的でイスラム法(シャリーア)に則った憲法を主張したのに対して、イエメン社会党は社会主義的な色合いの強い憲法を求めます。

また、人口比で劣る南の人材に政治的なポストが与えられすぎると不満を漏らす北の人がいる一方で、首都がサナアになったためにアデンから単身赴任しなければならなくなった人たちもサナアは住みにくいと文句を言います。統合の熱気が冷めるにつれて、こうした不満、不信感が募っていきました。しかしサレハ大統領はこれまで通り明確に政治的イニシアチブは取らないままです。サレハ大統領は政敵を取り込み、対立する人々を妥協させることにはたけていますが、明確なビジョンを示して国を引っ張っていくことは不得意なのです。

1993年後半になるとイスラーハ党関係者によるイエメン社会党関係者の襲撃なども起こり、南出身のアルビード副大統領が「サナアでは身の安全が守れない」と言ってアデンに引きこもってしまいます。この背景には首都の地位を失い、「自由港構想」が打ち上げられながら全くアデンの開発に予算が回って来ないことに堪忍袋の緒を切らしたアデン市民の声がありました。このときにもカタールなどGCC諸国が調停に入り、サレハ大統領とアルビード副大統領がサナアとアデンの真ん中にあるタイズで和解会合を行ったりしました。

しかし、事態は好転せずそれぞれ敵地に配備されていた旧南北軍が別々の指揮系統で衝突をし始め、1994年5月4日に内戦が始まってしまいます。これは、1990年に軍を統一することを先延ばしにしたことの、必然的な結果であったと言えます。ただ、戦況は北側に有利で、1986年のアデン政変で追放されていたアリー・ナーセル前南イエメン大統領派も北軍に合流、さらにイスラーハ勢力と北部部族勢力も北軍に合流したために、6月末にはアデン以外は鎮圧されます。籠城状態になったアルビード派はアデンで「南イエメン国」の独立を宣言しますが、結局7月7日に陥落。アルビード副大統領、アッタール首相らはサウジに亡命して内戦は決着しました。

この内戦の結果、旧南の軍隊はすべて武装解除され軍事的な抵抗力を剥奪されてしまいます。これで内戦再発の可能性はほとんどなくなりました。アルビードに代わる副大統領にはアリー・ナーセル派のハーディー氏が就任します。内戦後、サレハ大統領は政治的、経済的に重要なアデンの不満をなだめるために頻繁にアデンを訪問し、かつ反乱分子を取り締まるために腹心の政治家をアデン市長に任命します。また、内戦後も現在に至るまで基本的に南出身の首相が続くのは南イエメンの人々の声を決して無視していないという姿勢を見せるためでしょう。

しかし懐柔策を示しても、基本的に統一国家における旧南イエメン地域の「軽視」は否定しがたく、旧南の諸州の知事に北の軍人が天下ってきて、好き勝手なことをして私腹を肥やすという不満も鬱積しています。また、武装解除によって失業した軍人たちは年金支払いの遅延などで、満足に家族を養えないという状況に追い詰められています。こうした人々は、数年前から南の地方都市でデモや示威行動を行うようになりました。時には道路を封鎖したり治安部隊と衝突したりという事件もしばしば報道されていました。これが、現在の「南部分離派」の動きの底流なのです。

今年(2011年)6月初めのサレハ大統領負傷後の権力の空白を利用して、旧南イエメンのいくつかの都市(特にラヘジ州、アブヤン州、ダーレア州など)で武装勢力が治安部隊から支配権を奪ったという報道がなされています。欧米メディアはこれを「アルカーイダ系」と説明していますが、部分的な支援関係はあるとしても基本は「南部分離派」の人々だと思います。そして、南部分離派はサレハ政権の崩壊のためには、どのような外部勢力とも協力するでしょうが、彼らがアルカーイダと共闘することなどあり得ません。アデンの市民がそんなことを望む理由はないのです。彼らは自分たちの力で自由港を再構築したいと考えているのです。グローバル経済に背を向ける政策などあり得ません。

私はサレハ大統領は、いずれかの段階で(望むらくは自主的に)退陣すると見ていますが、それによって現在の混乱が収まったとしても、旧南イエメンの人々の「統一国家」に対する失望には根深いものがあり、この問題に真剣に取り組まない限り統一イエメンの将来はありません。これは、イエメンにとってはアルカーイダ系の勢力が数百人程度いることとは比べものにならならいほどの重大問題であり、アラビア半島全体の安定にとっても無視できない問題なのです。
【佐藤寛 2011/6/22】

2011年6月20日月曜日

【イエメンはどこに行く・6】《南北イエメン分断史》

現在のイエメン政治における二大問題のもう一つは南部イエメン分離派です。この南部分離派の背景を理解するために、まず100年にわたる南北イエメン分断史をおさらいしておきましょう。

そもそも南北イエメンが分離したきっかけは、イギリスが作りました。19世紀前半にスエズ運河からインド洋に抜ける海路の要衝アデン港を保護領としていたイギリスは、自らの中東地域における権益を守るために、20世紀初頭にこの地域に名目的な宗主権を持っていたオスマントルコとアラビア半島分割条約を結びました。その分割線はアフリカの国境線同様きわめていい加減なもので、紅海の入り口バブアルマンデブ海峡からペルシャ湾のバハレーン島までを一直線に結んだのです。

しかし、その頃実際にイエメン北部を支配していたのは、イスラム教ザイド派のイマームであり、トルコではありませんでした。そしてイマームはイギリスに支配されている南部イエメンを含めたイエメン統一を目指していました。ところがこのイマームの頭越しにイギリスとトルコが勝手に南北イエメンを分断したわけです。以来、南北イエメンの統一はイエメン人の悲願となりました。

第一次世界大戦の敗戦でオスマントルコ帝国は凋落し、トルコの宗主権から離れた北イエメンは「イエメン・ムタワッキル王国」として国際社会に認知されました。一方アデンは「世界で2番目に船舶寄港数の多い港」となって大英帝国の拠点として栄えていたため、イギリスはアデンの周辺地域へも支配を拡大していき、南イエメン全域がイギリスの保護領となりました。

こうして第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、アデンはアラブ地域の先進近代都市となり、教育水準も向上して北イエメンとの国境地域(タイズ周辺)からも多くの移民が流入し始めました。アデンで教育を受けた人々の中には、さらにアデンから船に乗って世界に飛び出した人々も多く、イギリスのリバプール、アメリカのデトロイト、カリフォルニアなどにはこの頃から「イエメン人コミュニティー」が出来はじめます。他方、北イエメンでは鎖国政策が敷かれていたため、様々な側面で近代化が進まずアラブで最も遅れた国になってしまいます。こうして「進んだ南、遅れた北」という構図が成立します。

第二次世界大戦後、多くの英領植民地は独立しましたが、アデンの重要性からアイギリスは南イエメンを手放しませんでした。かたや、アラブ世界ではエジプトにナセル大統領が登場し、アラブ民族主義・アラブ式社会主義の理念を多くのアラブの若者に訴えました。これを受けて北イエメンでは1962年にイマームを打倒する軍事革命が発生し、サナアを首都とする「イエメンアラブ・共和国」が誕生します(9月26日革命)。このとき、革命政権はアデンもイギリスの手から奪って統一イエメンを実現しようとしていましたし、アデンにもこれに呼応しようとする勢力がありました。

しかしイギリスはアデン(南イエメン)の分離を許さず、かつイマーム王政が打倒されることに危機感を抱いたサウジアラビア、ヨルダンなどのアラブ王政国家が、逃げ延びたイマームを資金的・軍事的に支援したため、北イエメンでは「王政派対共和国派」の内戦状態になります。このため、革命政府は南イエメンのイギリスからの奪回に力を割くことが出来なくなります。

他方、アデンではブリティッシュ・ペトロリアム(BP)製油所の労働者などが中心となって反英独立闘争が活性化し、1963年には南北イエメン国境に近いアブヤンで最初の武力行動が始まります(10月14日革命)。当初イギリスはこうした動きを武力で押さえつけていましたが、最終的には労働党政権下でスエズ以南の植民地放棄を決断、南イエメンも1967年に独立するスケジュールが決まりました。イギリスは南イエメンの穏健派に政権を委譲しようとしていましたが、ナセル・エジプト大統領の支援を受けた社会主義者たちが独立直前にアデンの実権を握り、彼らを中心に11月30日に「アラブ唯一の社会主義国家」として南イエメンは独立します。

この時、すでに存在する「イエメン・アラブ共和国」に合流しようという動きもあったのですが、当のサナアは「王党派」の攻勢で包囲され、「共和国派」が陥落寸前という状況でした。この包囲は70日続いた共和国派最大の危機でしたが、ナセルのエジプトと、独立したばかりの南イエメンからの援軍を得て包囲を破ることができ、これを契機に王党派は衰退していきます。

こうして1969年ころまでには北イエメンの内戦は共和国派優勢で収束し、晴れて南北統一を考えることが出来ようになりました。ところがこの間に独立したばかりの南イエメンでは政治路線対立が続き、社会主義化政策が先鋭化したために、比較的穏健なサナアの政策とはどんどん乖離していきました。そして1970年代には数次の南北イエメン国境紛争・内戦が発生してしまいます。これは東西冷戦と無関係ではありませんが、朝鮮半島とは異なります。南イエメンは東側陣営ですが、北イエメンもソ連からもアメリカからも軍事支援を受けて「援助のオリンピック」状態を保っていたからです。

1983年を境に南北内戦は鎮静化し、北のサレハ大統領と南のアリー・ナーセル大統領との間で友好関係が築かれ、南北統一も議題に上るようになりました。ところが、アリー・ナーセル大統領の対米接近路線に対して南イエメンの支配政党「イエメン社会党」内で反対意見が強まり、1986年にアデンで内紛が起こり、アリー・ナーセルは失脚してしまいます(1月13日事件)。

南イエメン政権は、再度社会主義路線を強化しようとしますが、すでに東ヨーロッパの動揺は進み、1989年にはベルリンの壁が崩壊しました。東側陣営の後ろ盾を期待できなくなったイエメン社会党はこのままでは政権維持が困難と判断し、自らの影響力を守るために南北イエメンに踏み切ることにしたのです。これが、1990年5月22日。東西ドイツの統一よりも半年早い「無血統一」でした。

イエメン人の意向を無視したイギリスとトルコの国境線画定から約90年、悲願の統一を果たして新生「イエメン共和国」の大統領に就任したサレハ大統領は、こうしていったんは全国民のヒーローとなったのです。【佐藤寛 2011/6/20】

2011年6月18日土曜日

【イエメンはどこに行く・5】《アル・ホーシー派》

  アルカーイダよりも、イエメンの内政にとって重大な問題は二つあります。一つが北部の「アル・ホーシー派」の騒乱、もう一つが南部の分離独立派の活動です。まず、アル・ホーシー派について解説しましょう。

  イエメンの主要都市は首都のサナア(標高2300m)、南部の港町アデン(旧南イエメン時代の首都)、その中間にあるタイズ(標高1000m)、紅海沿岸の港町ホデイダ、東部ハドラマウトの港町ムカッラなどがあります。そのほかに北部のサウジとの国境近くにサアダという町があり、特に北部部族勢力の拠点として重要です。

  そして、サナアから山岳道路を通ってサアダに抜ける途上に「アル・ホウス」という町があります。アラビア語で「アル」は定冠詞、英語のtheに相当します。Howthの形容詞形はHowthy、すなわち「アル・ホーシー」は文字通りには「ホウス地方の」を意味する形容詞です。また、同時にその地方の出身者の名字のような使われ方をすることもあります。今回の一連の出来事は「アル・ホーシー」を名乗る家系の人が主導しているので「アル・ホーシー派」と呼ばれています。

  新聞などの報道では「イスラム過激派」とか「イスラム原理主義」とか書かれている例もあるようですが、どちらも正確ではありません。アル・ホーシー派は現在のサレハ政権の北部部族領域に対する政策に不満を持つ人々がイスラムの知識人である「アル・ホーシー」に共鳴してその旗の下に集まっている、というきわめてローカルな性格の集団です。

  現在のイエメン共和国は1990年に「イエメンアラブ共和国(北イエメン)」と「イエメン人民民主共和国(南イエメン)」が統一して出来たのですが、旧北イエメンは1962年まではイスラム教ザイド派のイマーム(聖俗両面の指導者)の支配下にありました。このザイド派というのは8世紀以来北部イエメンの支配的な宗派で、イエメンを支配した歴代イマームは基本的にこの宗派の最高権威です。そして、イマームはいくつかの有力家系の中から選ばれるのですが、その中の最有力家系「ハミード・アッ・ディーン」家の根拠地は「アル・ホウス」周辺でした。

  「アル・ホーシー」ももちろんこのザイド派の宗教知識人です。そして、ザイド派は、イスラム教のシーア派の一派です。このことから、欧米の単純な人々はすぐに「イランの陰謀」という筋書きを作るのですが、一口に「スンニ」と「シーア」と言ってもいろいろあります。旧北イエメンのサナアから北はほぼすべて「ザイド派」で、それ以外のタイズ周辺、紅海沿岸、内陸砂漠部はスンニ派に属する「シャーフィー派」に属し、人口はほぼ半々でした。旧南イエメンはほぼすべて「シャーフィー派」で、南北統一に伴い、宗派バランスでは「ザイド派」は過半数を割っています。しかし、サレハ大統領はザイド派です。

  しかし、イエメンの政治においては宗派(スンニとシーア)はほとんど意味を持って「いません」。サナアにはザイド派(シーア)の人もシャーフィー派(スンニ)の人も混在していますが、同じモスクで礼拝することが出来ます。ザイド派は「シーアの中で最もスンニに近い」といわれているのです。ですからイラクやイランの紛争を頭に置いて、ホーシー派がシーアなのでイランが介入している、などと単純に決めつけるのは危険です。繰り返しますが、サレハ大統領は北部部族の出身ですから、アル・ホーシーと同じザイド派なのです。

  もちろん「アル・ホーシー」は現在の国の宗教政策に不満はあるでしょうが、むしろ勢力を拡張したのは宗教的な主張の故ではなく、経済的にも政治的にもあまり優遇されていないと感じている北部部族地域の不満があるからです。これこそが、サレハ政権の危機なのです。サレハ大統領は北部部族地域については部族の代表者を通じて間接統治をしてきました。その代表者の筆頭が「アハマル家」でした。アル・ホーシー派の反乱は、このアハマル家を通じた間接統治が有効でなくなったことを示しています。そして、サウジとの国境地域には、サウジ王家から直接補助金をもらって軍備を整えている様々な部族がおり、こうした人たちが結集すれば国軍に対抗できる軍事力となるのです。

  アル・ホーシー派の反乱は2006年頃から本格化し、いくつかの地方都市を実質支配することもありましたし、2008年には首都サナアのすぐ北東の「バニー・ホシェイシ」地区まで進軍したこともあります。その後政府軍が盛り返して2010年はじめにはサアダ周辺で激しい攻防戦があり、サウジ軍もアル・ホーシー派を空爆したこともあるようです。この問題はサウジをはじめGCC諸国の懸念を招き、カタールなどの仲介で何度か休戦協定を結ぶところまで行きましたが、決着はしていません。そうこうするうちに2011年2月からの「民主化デモ」が始まったのです。

  現在アル・ホーシー派の動向はあまり報じられませんし、ひと頃に比べて軍事行動は下火にはなっているかもしれません(というより、国軍がそれどころではない状態でかまっていられないのでしょうが)。しかし、基本的にサレハ政権の北部部族地域政策に対する積み重なる不満がある状況は変わっていません。他方、サナアなどで行われている「民主化デモ」と「アル・ホーシー派」とはほとんど接点はないと思います。

  大切なことは、 どのような形であれ、「サレハ後」の時代がやってきたとしても、「アル・ホーシー派」問題は、「アルカーイダ」よりもイエメンの内政安定のためにはより重要な課題であるということを忘れないことだと思います。【佐藤寛 2011/6/18】

2011年6月15日水曜日

【イエメンはどこに行く・4】《アルカーイダ》

アメリカやイギリスにとって、イエメン問題はイエメン国民のために問題なのではありません。自国の安全保障のための問題なのです。それは、「アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)」と呼ばれる集団がイエメン南部に潜伏していて、そこから米英に対するテロ攻撃を仕掛けている、という認識があることに基礎をおいています。

2009年のクリスマスにアメリカで飛行機に自爆爆弾を持ち込もうとしたナイジェリア人が逮捕される事件がありましたが、その人物はイエメンのAQAPの基地で指導を受けたとされ、多くの英米の国民の間では「9.11」の恐怖がよみがえり、それ以来AQAPは欧米の諜報機関の危険リストの上位に躍り出たのです。

さらに2010年10月末にカタール経由でイギリスに届いたイエメンからの航空貨物の中に爆発物が発見されるという事件がありました。これもAQAPの犯行であるとされたため、「手遅れにならないうちにイエメン国内のアルカーイダのアジトを空爆すべき」との世論が高まっていました。

また、今回のイエメンでの政治的混乱で「アルカーイダがイエメンの政権を乗っ取るのではないか」という荒唐無稽な危機感をあおる人もいます。もちろん、テロへの恐怖感は理解できますが、今回のイエメン政治的混乱とAQAPとの関係は限定であることをまず理解する必要があります。また、欧米にとっての重大問題と、イエメン自身にとっての重大問題を混同することは、イエメン問題の適切な解決にとってはむしろ障害となるでしょう。イエメンにおけるアルカーイダ問題の特質を三点を指摘しておきます。

第一にイエメンの現在の政治的混乱とその解決にとってAQAPはマイナーな問題です。二月にデモが始まるまでのサレハ政権の最大の問題は「北部のアルホーシー派の反乱」と「南部の分離独立派の反乱」の二つでした(これらについては後ほどご説明します)。

これらはいずれもサレハ政権の国内掌握力の衰退を示す出来事で、この結果としてイエメン中南部の部族領域(アブヤン、シャブワなど)にAQAPが「秘密訓練施設」を確保できる状況が生まれたのです。しかし、いわゆるAQAPのメンバーはせいぜい数十人というのが大方の専門家の意見で、特定の地域を「占拠」しているのではなく、部族長の許可のもとに「居候」している状況でした。

第二に、サレハ政権にとってAQAPは脅威ではありませんでした。イラク、アフガニスタンから追い出されてイエメンに流れ着いたアルカーイダにとっては政府の掌握力の弱いイエメンは理想的な「安全地帯」で、弱体化するサレハ政権に続いてほしいと考えています。このためAQAPは基本的にはサレハ政権に対する攻撃は一切しておらず、あくまでも欧米への攻撃のための「訓練地」として機能していたので、イエメンの国内政治にはほとんど影響がなかったのです。

第三に、AQAPを問題視しているのは欧米であり、これを利用してサレハ大統領はAQAPの存在を理由にアメリカからの軍事援助を最大限引き出すことに尽力してきました。この軍事援助を利用して、アルホーシー派、南部分離派の掃討作戦を行うためです。

こうした状況下で、6月3日(金)の大統領府砲撃(空爆ではないと思いますが)によってサレハ大統領が重傷を負い、サウジに搬送されて手術を受けるという事態になりました。これによって、イエメンには「権力の空白」と呼ばれる状況が発生しています。欧米メディアはこれがこの権力の空白を利用して暴力的な勢力が伸張するのではないか、「内戦状態」に陥るのではないか、という懸念を表明しています。

これと同時にアメリカはイエメン領内での無人機による空爆を本格化しているのです。もちろん名目はAQAPの掃討です。しかしいかに弱体化しているとはいえ、イエメンは主権国家です。その国に外国の軍用機が、その国の政権の意向とは無関係に自由に作戦を展開しているのです。これはオサマ・ビンラーデン殺害作戦を、パキスタン政府の許可なしにパキスタン国内で実施したことと同様の構図です。すなわち、権力の空白を最大限利用しているのは米国ともいえます。

こうした軍事行動は、今後のイエメンの政治的安定、アメリカをはじめとする欧米諸国との関係に大きな禍根を残す可能性があります。もし、現在の政治的混乱の収束のために外国が介入するのであれば、必要なのは軍事介入ではありません。まずサレハ大統領の政権委譲プロセスを円滑化するための支援をし、次の政権の安定化を図りつつその政権と協力してAQAP対策を講じるべきでしょう。もちろん、そんな悠長なことを言っていられないという人もいるでしょうが、それはあくまでも外国人のエゴです。

イエメンが不安定なままでは、どれほど無人攻撃機でAQAPのアジト攻撃に成功しても、次から次へと反欧米メンタリティーを持つ人々を増やすだけで、むしろ潜在的な脅威が増すばかりであるということを、きちんと把握するべきではないでしょうか。
【佐藤寛 2011/6/15】

2011年6月14日火曜日

【イエメンはどこに行く・3】《次は誰か》

   そして、「次は誰か」です。これには全くめどがありません。まず第一に、誰もサレハ大統領がこれまでやってきたことを真似できません。皆それがわかっているので、誰もこの仕事をやりたくないのです。これが、サレハ政権が33年間続いてきた最大の理由です。

  軍を骨抜きにしておくこと、北部部族と一定の関係を維持すること、中部イエメンのテクノクラートを掌握すること、旧南イエメンの不満分子を間接的に抑えること、東部ハドラマウトの人々をつなぎ止めておくこと、そして流れ込んできたアルカーイダ系の人々が国内で悪さをしないようになだめておくこと。さらにサウジとはけんかしない程度に関係を維持し、必要なときにはお金をもらうこと。

  これらをサレハはそれぞれの仲介的な役割を担う人を使いながらやってきたのです。サレハ自身の言葉によれば、イエメンを統治することは「蛇の頭の上でダンスを踊ることに等しい」のです。(Victoria Clark "Yemen: Dancing on the heads of snakes" Yale Univ.Press, 2010)。ですから、仮にサレハが退陣しても誰も蛇の頭の上でダンスを踊る役割はしたいと思っていないのです。

   サレハは、シリアのハフェズ・アサド前大統領が息子に大統領職を禅譲することに成功したことを見て、またムバラクも息子に大統領職を息子に譲ろうとしているのを見て、自分も息子アハマドに継がせようと思っていたかもしれません。しかし、仮にそれが出来たとしても、アハマドが成功する確率は限りなく低かったでしょう。アハマドは父親が持っている「ネットワーク」を持っていないからです。今回の一連の経緯でこの可能性が排除されることは、イエメンにとっては幸いです。絶対失敗するシナリオを取らずに済むからです。
 
   ハーディー副大統領が、暫定政権を組織したとしても、同じことです。彼は旧南イエメンの代表であることから、北部部族との交渉はまず出来ません。サウジとの交渉も出来ません。1981年にサダト大統領が暗殺されたときに、ムバラク副大統領が大統領になりました。このときは、ムバラクは無名で指導力が不安視されましたが、軍を掌握していたことでそれ以後30年間の政権を維持できたのです。
 
  ところが、イエメンでは軍を掌握している人はいません。今回の争乱の中で3月に腹心と言われていた第一師団司令官(アリ・モフセン・アルアハマル)がデモ支持を表明しましたが。まだ軍は一応大統領の指揮下にあります。各部隊の司令官だけはサレハと個人的につながっているからです。
 
  もしも、政府が組織的に動いているなら、トップが変わっても組織は継続的に活動できますが、そうでない場合(イエメンの軍がそうですが)は、トップが変わったら大混乱になるだけです。
 
  北部部族については、5月後半からサレハ自身の出身部族であるハーシェド部族連合の連合部族長サーディク・アルアハマルが公然と反旗を翻し、あっという間に一部の政府機関を占拠しました。この程度の軍事力を北部部族が保持していることは明らかだったので驚くことはないのですが、アハマルは、サレハのやり方に怒っているのであって、自分が大統領をやろうなどとは露ほども思っていないでしょう。

  そもそも、そんなことを言い出したら、これまで三ヶ月以上民主化要求デモを続けてきた学生たちが黙っていないでしょう。野党連合は今回の一連の動きの中でサレハに圧力をかけてきましたが、それを率いる指導者はいません。所詮烏合の衆です。

  また、今回の大統領府攻撃を誰がやったのかも謎ですが、サレハが負傷してサウジに出国したことを反サレハ派の人々は皆喜んでいますが、これでサレハが暗殺されたとしたらこれまでの民主化運動の意味はほとんど失われてしまいます。
 
  現時点では、サレハ後のこの国の舵取りをどうするのか。全くめどが立ちません。もちろん、憲法の規定に則りハーディー副大統領が暫定政府を組織することが最も穏当です。それで一年程度はしのげますが、その間に次の「国の姿」を模索しなければならないことになるでしょう。
【2011/6/14】

【イエメンはどこへ行く・2】《大きな流れ》

   まず、今回のイエメンでの一連の出来事を、単にアラブの春の連鎖反応だと考えるのは正しくありません。イエメンにはイエメンに固有な政治の流れがあるからです。

   私はすでに5年くらい前から「サレハ政権の行き詰まり」を指摘してきました。サレハ政権は、様々な利害を持つ諸勢力をとにかくまとめて、国としてのまとまりを維持することにはきわめて長けています。1990年にベルリンの壁が崩壊した時に、無血で南北イエメンの統一を達成したのはその一つの成果です。もちろん、いろいろな人に妥協を積み重ねさせることの無理が1994年の南北内戦につながったのですが、それも武力で制圧し、旧南イエメンの保守的勢力であるハーディー氏を副大統領に据えて、統一国家を維持してきました。

  しかし、サレハ政権の最大の弱点は、「政策を打ち出せない」ことです。特に経済政策、開発政策には全く方向性を打ち出せないままにこれまで33年間を費やしてきました。1978年にガシュミ前大統領が爆死して政権を継いで以来、旧南イエメンとの紛争で1980年代前半は推移し、後半は石油が発見されたのでこの金の使い道だけ考えればよく、1990年のイラク危機の時には湾岸諸国に見放されても欧米からの援助でしのぎ、1994年の内戦を乗り越えるまでは、それでも良かったのです。

   しかし、1994年以降は「開発政策」が必要だったのです。それが打ち出せなかったのは、「妥協の名人」サレハ政権の宿命です。長期的な視点に立って物事のプライオリティー付けをし、政策目標を掲げて様々なステイクホルダーの利害を一致させる、ということはサレハ政権には望めません。

  それでも、石油収入がありアメリカが軍事援助を続けている限りは延命できたし、2000年代前半まではそれなりの建設ブームもあったので、人々は我慢してきました。しかし、この五年ほどはサナアの表面的な活況をよそに、地方部の衰退は進み、特に旧南イエメンはアデンも含めてほとんど「無視」されてきたのです。これでは国は進みません。

  サレハ大統領自身も、自分の限界は知っていると思います。サナアに壮大な「アリー・アブダッラー・サレハ」モスクを建立したのを機に本当は引退すべきだったのです。国民もそれなら「名誉ある引退」を拍手で迎えたでしょう。しかし、それは出来なかった。なぜなら後継者がいないからです。これが「手詰まり」。

  サレハ自身も、国民もどうやってこの手詰まりから抜け出せるのか、見通しがなかったのです。私自身も見通しが見えませんでした。ところが、「アラブの春」です。これなら、暗殺されずに引退できるのです。サレハ大統領はこのシナリオに、基本的に乗るつもりがあるはずです。それが唯一の「出口」だということを、彼自身もわかっているから。つまり、現在起こっていることは、手詰まり状態にあったイエメンにとっては「最も望ましいシナリオ」なのです。これが大きな流れです。

  問題は、「退陣の仕方」と「次は誰か」です。退陣の仕方として、6月3日にあったような「大統領府攻撃」などによる「暗殺」は最悪です。なぜなら、サレハ政権に依存している利害関係者がそれを理由に次の政権に対する徹底抗戦をする理由になってしまうからです。あくまでもサレハ自身の意志による「退陣」でなければなりません。その意味で、サレハがサウジで治療を受けた後、いったん帰国したいと考えているのは理にかなっているのです。
 
  繰り返しますが、イエメン史の大きな流れの中で今回の争乱は、これまでのシナリオにはなかったウルトラC的な方法であれ、暗殺でない政権交代に向かっているという意味でイエメンにとっては最も望ましいシナリオで進行しており、従って外部者が過度に騒ぎ立てる必要はないということを指摘しておきたいと思います。【2011/6/13】

【イエメンはどこに行く・1】《アラブの春》

【イエメンはどこに行く・1】《アラブの春》
   2011年1月に、チュニジアのベン・アリ大統領が民衆の抗議デモを受ける形で国外脱出し、23年間の独裁政権が崩壊したことは、これまでの中東・アラブの政治常識を覆したという意味でまさに「革命」というにふさわしい出来事でした。一部の人々はこれを「ジャスミン革命」と呼んでいるようですが、その後これがエジプトにも波及して2月にムバラク大統領が30年にわたる政権を手放さざるを得なくなりました。これまた、大方の中東専門家が予想さえしなかったという意味で革命的な出来事です。

  こうした展開を見た他のアラブ諸国の人々は一種の興奮状態に陥り、各国に民主化要求の市民デモが飛び火します。この一連の動きを「アラブの春」と呼ぶ人もいます。おそらく1968年のチェコで起こり、ソ連軍の軍事介入で鎮圧された改革運動を「プラハの春」を念頭に置いたネーミングでしょう。

  しかし、「アラブの春」の展開はそれぞれの国ごとに大きく異なっており、単純にチュニジア→エジプト→次の国というようなドミノが自動的に起こるわけではありません。リビアの状況はカダフィ氏が強固に抵抗することで泥沼化し欧米諸国が軍事介入するというとんでもない事態に発展していますし、シリアもアサド・ジュニアが弾圧志向を強めて「政府対人民」という悲惨な状態になりつつあります。バハレーンの争乱は、パトロンであるサウジが軍事介入して押さえ込んでしまいました。
  
  では、イエメンはどうなるのでしょう。事態は流動的ですが、イエメン専門家と名乗るからなは知らんぷりもしていられませんので、これからしばらくこの問題についての、私の考えを述べてみたいと思います。【佐藤寛・2011/6/13】