ハドラマウトは、イエメンに19ある州のうち最大の面積を持つ州で、イエメンの東部のかなり大きな部分を占めていますが、定住地は海岸沿いと内陸のハドラマウト渓谷に限られるので人口はそれほど多くありません。オマーンとの間にマハラ州がありますが、こちらはさらに人口密度の少ない地域です。
ハドラマウト人は、イエメン国内の他の地域とは少し異なる独自の歴史とアイデンティティーを持っています。 アラブの血統学上ハドラマウトの人々はやはりカハタン(純粋アラブ)の系譜に位置づけられますが、ハドラマウト以西のイエメンの人々とは、かなり早い段階で枝分かれした系譜を持っており、その始祖の名前が「ハドラマウト」です。
そしてシバの女王で有名な古代南アラビア王国の時代(紀元前10~紀元1世紀)には山岳部イエメン、内陸砂漠部イエメンとともに南アラビアの一部を構成していましたが、それ以降は山岳部イエメンとは緩やかなつながりしか持っていませんでした。 紀元(正確にはキリスト歴というべきですが)7世紀にメッカで預言者ムハンマドがイスラム教を唱え始めると、ハドラマウトの人々は早い段階でイスラム教に帰依し、イスラム帝国が北アフリカに進出したときにはその先兵となって活躍したのがハドラマウト人だったと言われています。
その後、イスラム帝国の首都がバクダードにあったアッバース朝期(8世紀~13世紀)には『千夜一夜物語』の「シンドバードの冒険」のようにインド洋の航海をアラブ商人が支配する時代がやってきます。このアッバース朝末期にインド・東南アジア方面にイスラム教を広めたのは、ハドラマウト商人たちだったのです(ハイデラバードの語源がハドラマウトだという人もいます)。東南アジアにイスラム王国が発生するのは13世紀以降ですが、その王家の多くはハドラマウト系のアラブ人と現地の女性との混血家系です。ちなみに、現在のブルネイ王家はハドラマウトを出自としています。
ハドラマウトからこのように多くの人が海外に出て行く原因は人口圧力です。ハドラマウト渓谷は降雨のほとんどない乾燥気候で、アラビア半島内陸部・山岳部に降った雨がインド洋に流れ出す涸れ川(ワーディー)に依存したオアシス農業しか産業がないため、人口が増えれば外部に出ていくしかないのです。このため、ハドラマウト人(ハドラミー)は世界的な視野を持ち、商売に長けているとされています。一部では「アラブの中のユダヤ人」と呼ぶ人もいますし、昭和初期の日本人アラビストは「アラブの近江商人」と呼んでいたこともあります。
19世紀前半にイギリスが軍事力でアデンを占領した頃、ハドラマウトにはカーイティー、カシーリーの両スルタン王国がありました。ハドラマウトがイギリスの保護領になって以降も独自の国境を維持することが認められており、1968年の南イエメン独立以前にこの地域を旅行するためには、スルタン王国のビザを取得しなければならなかったそうです。
また、シンガポール、アチェ、ジャカルタ、スラバヤなどの東南アジアの港湾都市には現在に至るまでハドラマウト系の家系が少なからずあります。こうした人々はアラブ名を名乗るばかりでなく、息子が13-14才になると数年間「故郷」ハドラマウトに留学させ、アラビア語とイスラム教を徹底的にたたき込ませ、さらにメッカ巡礼もして「ハジ」の称号を得て、一人前の「アラブ人」になって里帰りさせるという習慣が今でも残っています。ハドラマウト渓谷のオアシス都市の一つタリームにはこうした海外ハドラミーの子弟が通う寄宿舎生学校があり、そこにはアフリカからやってきた混血のハドラミー留学生もいます。こうした教育施設が、イスラム原理主義的な思想が世界に広まる拠点の一つになっているのではないか、と言う人もいます。
第二次世界大戦後、まだ南イエメンがイギリス保護領だった頃に「ハドラマウ独立」を目指す動きは、知識人を中心に、なんとインドネシアのジャカルタで旗揚げしたのだそうです。また、メッカに巡礼に行ってそのまま居着いたハドラミーの中にはサウジの港湾都市ジェッダを根拠にビジネスで成功し、サウジの大財閥に仲間入りした家系も少なくありません。オサマ・ビンラーデンの属する「ビン・ラーデン」家もこの例です。このように海外で成功したハドラミーは、決して故郷とのつながりを切らずに故郷に送金したり投資したりするので、社会主義政権下の南イエメン時代、アデンよりもハドラマウトの方が社会インフラは充実していたとされています。
ハドラミーは他のイエメン人と比べると温和で、争いを好まず、教育程度も比較的高いのですが、他のイエメン人からは「けち」と陰口をたたかれています。1990年の南北統一でアデンの社会主義政権が崩壊して以降、サウジのハドラマウト系財閥は一時競ってアデンに投資をしました。このためアデンにはサナアよりも設備の良いホテルや、大きなショッピングセンターも出来ています。ただ、アデン自由港の計画がちっとも進まないので、開店休業状態ですが。さて、こうしたハドラミーたちは、今後のイエメンにとってどんな役割を担うことになるのでしょうか。それを次回考えてみたいと思います。
【佐藤寛 2011/6/27】
1 件のコメント:
あまり好きな言葉ではありませんが、南北イエメンに分かれていた統一後に日本で言うところの地方B級グルメ~ブランド産品、商品にあたる乳香や蜂蜜、ぐっと差のつく肉料理の数々は、北イエメンのそれを凌ぐ物ばかりだったという印象です。そして、革命後アデンからタイズに住み込んだアデニイの文化教養がにじみ出る生活態度は尊敬できました、ネ。
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