今朝(2011年8月22日)のニュースで、リビアのカダフィ大佐の次男が反カダフィ勢力に捕まって、いよいよカダフィ体制も末期だというような観測が伝えられていました。3月後半に始まった欧米による反カダフィ派支援の軍事行動がようやく結実しそうです。しかし、この半年近くにわたって繰り広げられた干渉行為は、決して正気の沙汰ではないと思います。欧米の人々がこれを冷静に認めるようになるにはしばらく時間がかかるでしょうけれど。
さて、私がまだロンドンにいた先月(2011年7月)、セントジェームズ広場に面した王立国際問題研究所(通称チャタム・ハウス)で「オサマビンラーデン後の世界~9.11以後の十年」と題したセミナーがありました。その場を支配している論調を聞いていると、かつてのアデンの宗主国であったイギリスでさえも、現在中東で起こっていることを、現地の固有の事情などより、自国の都合で解釈するバイアスがきわめて強いことが印象的でした。
セミナーは二部構成でそれぞれ75分ずつ。司会が提示した問いに対して、三人のスピーカーがそれぞれに話をし、そのあと30分ほど質疑の時間を取るというスタイルです。チャタムハウスの通常のセミナーは60分ということが多いので、いつもよりも質疑の時間が多かったのです。
興味深い問いは「オサマビンラーデン(UBRと略している人がいました)が死んでテロとの戦争は終わったのか」「イギリスの治安状況は改善するのか」などで、もちろん専門家たちはおおむね「YesでもありNoでもある」というような答えをするのですが、問う側も答える側も「中東地域が安定するかどうか」はどうでもよくて、「イギリスにおけるテロの脅威は低減するのか」にもっぱら関心があるということがよくわかります。このロジックだと、イギリスに住む人々に対する脅威が低減するなら、中東で事態が混乱してもかまわない、ということにもなりかねません。その地に住んでいる人の幸せより、まずは自分たちの身の安全。
コーヒー・ブレークの時にクッキーのそばに置かれていた政府発行のパンフレットは、私にはさらに興味深いものでした。タイトルは「Conest:The UK`s strategy for COuntering Terrorism」発行は July 2011。できたてのほやほやです。
その中にはこんなことが書いてあります。「昨年一年で1万人がテロの犠牲になっています。」「アルカーイダの指導部は(ビンラーデンの死を経て)9.11事件以来最も弱体化しています。」「アルカーイダは「アラブの春(中東における民主化デモ)」に何の影響力も及ぼしていません。」つまり、テロの脅威を国民に啓蒙しつつ、イギリスはアルカーイダの封じ込めに成功しつつある、というメッセージです。
イギリスに住んでいると、西欧キリスト教徒のイスラム教に対する本能的な恐怖感を感じることがしばしばあり、アルカーイダに対する嫌悪感の大半はこうした感情に根ざしているように思います。そして西欧人が「アラブの春」における民主化デモ勢力、とりわけリビアの反カダフィ勢力を判官贔屓ともいえるほどに支援したがる(支援のために空爆までしてしまう)理由の一つが、こうした民主化勢力はアルカーイダの対抗勢力だと考えているからなのでしょう。
パンフレットにはアルカーイダ対策の全体的な楽観が表明されつつも、「しかしアルカーイダの系譜の組織が、特にイエメンとソマリアで過去二年で現れてきました」との言及があります。これが、現在イギリスにおけるイエメン注視の根拠となっているわけです。決してイエメン人の置かれている状況に対する同情からではありません。
また、パンフレットはHomegrown terrorist、すなわちイギリスに生まれ育ちながらもイスラム過激派の思想に共鳴する人々に対する警戒を呼びかけています。その重要な「洗脳」拠点としてパキスタンの脅威が指摘されており、それゆえにイギリスの外交はパキスタンの安定に注目するのです。
ところで、このパンフレット、後半は北アイルランドのIRAの話が続くのです。つまり、どちらも純然たるイギリスの国内問題なのです。おそらくアメリカの市民にとっても同様でしょう。6月にワシントンに行ったときにも、地元の人々は「今日のワシントンDCのテロ警戒警報は、オレンジレベル(要注意)」というようなことをお天気の話のようにしていました。
英米が、こうした「国内治安対策」の延長上で軍事作戦を展開したり、中東・アラブの政策を考えるのは仕方がないと思います。しかし、日本がそうした政策に同調しなければならない理由はほとんどありません。ならば、イエメンの庶民の生活の安定の寄与する、長期的な視野に立った適切な対策を提案できるのは英米よりも日本ではないでしょうか。現実的にはそれが難しいことは重々承知していますが、それでも日本外交のイニシアチブを期待したいところです。がんばれ外務省の中東関係者!
【2011/8/22 佐藤寛】
2011年8月22日月曜日
2011年7月12日火曜日
【イエメンはどこに行く・12】《アデン・アラビア》
アデンはインド洋の西の端に位置し、アラビア半島と「アフリカの角」ソマリアに挟まれたアデン湾に面しています。アラビア半島とアフリカ大陸の間の紅海の入り口に当たり、スエズ運河を越えて地中海に抜けるためには必ず通り抜けなければならない航路上にあります。
岩山に囲まれた天然の良港で、インド洋を航行する船舶にとっては重要な停泊地であり、15世紀には明の鄭和が寄航している記録もあるそうです。蒸気船の時代になってからは石炭補給地(のちに給油地)としてイギリスが活用し、1839年にイギリスが軍事占領した当初はインド提督の管轄下で(インド経営のためのイギリス船舶を海賊から守ることがもともとの目的だったため)、インドからの移民も多く現在でもアデンにはインド系の顔立ちの人が目立ちます。
イギリス占領下で、アデンは世界第二の寄港数を誇る近代的自由港としてその名を轟かせ、幕末から明治時代にかけての日本からの欧州派遣留学生の多くもこの港に寄港しています。スエズ運河完成(1869年)後はイギリスのアジア航路の要衝となり、イギリス人ばかりでなく、アフリカに進出しようとするヨーロッパ人のたまり場となっていたようです。詩人ランボーは19世紀末のフランス商社勤めの頃、この港に住んでいました。フランスのコミュニスト思想家、ポール・ニザンがパリの高等師範学校在学中にパリを逃げ出して一年間この町に住んだのは1930年。後にまとめられたエッセイ『アデン・アラビア』に彼は「アデンにヨーロッパの圧縮された姿」を見たと書いています。
1937年に「アデン植民地」としてイギリス本国からの直接支配になり、補給機能充実のために製油所が建設された1950年代がこの港のピークだったようです。当時は港の税関・入国管理事務所を抜けたところに「免税店街」があり、旅客船が着くたびに船からはき出された客でごった返したそうです。
その後旅客は航空機の時代になっていき、また1960年代以降は中東・アフリカにおける英仏の影響力が低下してアデンは顧みられなくなっていきますし、1970年代になるとアラビア半島の産油国が「オイルパワー」を用いて急速な近代化を開始し、アデンは「アラビア半島一の近代都市」から「田舎の港町」に転落していきました。《タワーヒー》と呼ばれるこの税関前の海岸通りには、今でも昔のままの石造りの建物がありますが、いずれも鎧戸を下ろし、さびれ果てていて当時の面影はありません。アデンの没落はある意味では「時代の流れ」ですが、他方政治に翻弄された「人災」の部分も少なくありません。
まず第一の「失敗」はイギリスの植民地統治の後遺症です。イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぎましたが、その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットを感じていませんでした。このため、これらの地域は現地の首長(Sahikh)やスルタン(Sultan)が治める「土侯国」「スルタン国」の権限をある程度認め、補助金を提供しながら間接統治をしていました。さて1960年代に末にイギリスが植民地を手放すときには、なるべく親英的な穏健派に権力を譲ろうといろいろと工作しました。
アデンはイギリス直轄領で、教育などの機能も充実していたし、港湾関係の雇用もあるので北イエメンから山を下りて多くの労働者が流入し、アデンに定着する人も出てくると、子弟を出身地から呼び寄せ、学校教育を受けさせます。このため、アデンには他の南イエメンとのつながりの薄い北イエメン出身の労働者が多くなりました。このほかにイギリスに連れてこられたインドからの移民も大きなコミュニティーとなっています。そのほか対岸のソマリアからも流入してきます。この意味でアデンは国際都市だったのです。
湾を挟んで港の対岸《リトル・アデン》に建設されたアデン製油所はブリテッシュ・ペトロリアムの経営する近代的な施設で、多くの労働者を雇用し、労働者のためのラジオ局、映画館などの施設も充実していました。またもともとの港湾作業に従事する労働者も数多くいます。
1956年のスエズ危機で英仏を向こうに回して戦ったエジプトのナセル大統領はアラブ世界全体の英雄となり、彼の唱える「アラブ民族主義」はイギリス植民地下にあるアデンの人々、保護領となっている地域の若者、さらにはイマームの圧政に苦しむ北イエメンのエリートなどを刺激します。こうしてアデンやアデン保護領では労働組合、アデンで教育を受けた部族出身者などを中心に急速に「反英独立闘争」が活発化します。
イギリスは当初これを軍事的に抑圧しますが、南イエメン独立の方針が発表されると、過激化するアデンの労働者よりもアデン保護領の保守的な首長たちに政権を委譲して、独立後の権益を確保することをめざし、1959年に六つの首長国からなる「南アラビア首長国連邦」を結成します(その後1962年に4つが加わって「南アラビア連邦」になり。1965年までには「上ヤーフェア」首長国以外のすべての保護領の首長国が加盟しました)。この穏健派首長の抱き込みによる親英国の確保、実はアラビア半島の対岸でも同じ試みが行われていたのです。それが、現在のアラブ首長国連邦(UAE)です。UAEは今でも七つの首長国の連邦で、ドバイ、アブダビなどは中東でも指折りの近代都市になっていますね。
イギリスはこうした保守派首長国によってアデンの過激化する政治勢力を中和しようとしたのですが、ペルシャ湾岸のUAEのようには行きませんでした。それは、1962年に北隣のイエメンで共和国革命が起こり、南部イエメンの人々にも「革命熱」が広がったこと、さらに紅海を挟んだ向かいにはナセルのエジプトが控えており、ナセル大統領からの物心両面の支援が「アラブ民族主義」勢力に届きやすかったからです。
アデンで彼らは占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)を組織して独立闘争を継続します。今なら、イギリスやアメリカはナセルを「テロリスト」と呼ぶかもしれませんね。イギリスは1965年には「南アラビア連邦」の自治権を停止して直接統治に乗り出ますが、思い通りにはいかず妥協してFLOSYやその他のアデンの政治勢力、と南アラビアの首長国と独立方法について交渉を始めます。
ところが、時は冷戦時代で、アフリカに続々登場した社会主義政権同様、アデンにはFLOSYよりさらに急進的な社会主義勢力NLFが台頭、東側勢力からの支援を受けて1967年後半に首長国を次々と軍事的に攻略、同年10月にはアデンも支配下に置くまでなりました。イギリスはもはやアデンのコントロールをあきらめ、11月末にNLFと独立協定を結んであっけなく撤退しています。新生「南イエメン人民共和国」はアデン、旧アデン保護領、旧ハドラマうと保護領を統合して誕生します(1967年11月30日)。
この時点では、アデン以外の地域は決して社会主義に賛成していたわけではありません(南アラビア連邦の一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアに亡命しました)が、たまたまアデンを握っていたNLFがイギリスから政権を移譲されたことが、これ以降長く続くアデンの凋落の第一歩となるのです。この意味で、イギリスの無責任な権力放棄の罪は小さくありません。 【佐藤寛 2011/7/12】
岩山に囲まれた天然の良港で、インド洋を航行する船舶にとっては重要な停泊地であり、15世紀には明の鄭和が寄航している記録もあるそうです。蒸気船の時代になってからは石炭補給地(のちに給油地)としてイギリスが活用し、1839年にイギリスが軍事占領した当初はインド提督の管轄下で(インド経営のためのイギリス船舶を海賊から守ることがもともとの目的だったため)、インドからの移民も多く現在でもアデンにはインド系の顔立ちの人が目立ちます。
イギリス占領下で、アデンは世界第二の寄港数を誇る近代的自由港としてその名を轟かせ、幕末から明治時代にかけての日本からの欧州派遣留学生の多くもこの港に寄港しています。スエズ運河完成(1869年)後はイギリスのアジア航路の要衝となり、イギリス人ばかりでなく、アフリカに進出しようとするヨーロッパ人のたまり場となっていたようです。詩人ランボーは19世紀末のフランス商社勤めの頃、この港に住んでいました。フランスのコミュニスト思想家、ポール・ニザンがパリの高等師範学校在学中にパリを逃げ出して一年間この町に住んだのは1930年。後にまとめられたエッセイ『アデン・アラビア』に彼は「アデンにヨーロッパの圧縮された姿」を見たと書いています。
1937年に「アデン植民地」としてイギリス本国からの直接支配になり、補給機能充実のために製油所が建設された1950年代がこの港のピークだったようです。当時は港の税関・入国管理事務所を抜けたところに「免税店街」があり、旅客船が着くたびに船からはき出された客でごった返したそうです。
その後旅客は航空機の時代になっていき、また1960年代以降は中東・アフリカにおける英仏の影響力が低下してアデンは顧みられなくなっていきますし、1970年代になるとアラビア半島の産油国が「オイルパワー」を用いて急速な近代化を開始し、アデンは「アラビア半島一の近代都市」から「田舎の港町」に転落していきました。《タワーヒー》と呼ばれるこの税関前の海岸通りには、今でも昔のままの石造りの建物がありますが、いずれも鎧戸を下ろし、さびれ果てていて当時の面影はありません。アデンの没落はある意味では「時代の流れ」ですが、他方政治に翻弄された「人災」の部分も少なくありません。
まず第一の「失敗」はイギリスの植民地統治の後遺症です。イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぎましたが、その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットを感じていませんでした。このため、これらの地域は現地の首長(Sahikh)やスルタン(Sultan)が治める「土侯国」「スルタン国」の権限をある程度認め、補助金を提供しながら間接統治をしていました。さて1960年代に末にイギリスが植民地を手放すときには、なるべく親英的な穏健派に権力を譲ろうといろいろと工作しました。
アデンはイギリス直轄領で、教育などの機能も充実していたし、港湾関係の雇用もあるので北イエメンから山を下りて多くの労働者が流入し、アデンに定着する人も出てくると、子弟を出身地から呼び寄せ、学校教育を受けさせます。このため、アデンには他の南イエメンとのつながりの薄い北イエメン出身の労働者が多くなりました。このほかにイギリスに連れてこられたインドからの移民も大きなコミュニティーとなっています。そのほか対岸のソマリアからも流入してきます。この意味でアデンは国際都市だったのです。
湾を挟んで港の対岸《リトル・アデン》に建設されたアデン製油所はブリテッシュ・ペトロリアムの経営する近代的な施設で、多くの労働者を雇用し、労働者のためのラジオ局、映画館などの施設も充実していました。またもともとの港湾作業に従事する労働者も数多くいます。
1956年のスエズ危機で英仏を向こうに回して戦ったエジプトのナセル大統領はアラブ世界全体の英雄となり、彼の唱える「アラブ民族主義」はイギリス植民地下にあるアデンの人々、保護領となっている地域の若者、さらにはイマームの圧政に苦しむ北イエメンのエリートなどを刺激します。こうしてアデンやアデン保護領では労働組合、アデンで教育を受けた部族出身者などを中心に急速に「反英独立闘争」が活発化します。
イギリスは当初これを軍事的に抑圧しますが、南イエメン独立の方針が発表されると、過激化するアデンの労働者よりもアデン保護領の保守的な首長たちに政権を委譲して、独立後の権益を確保することをめざし、1959年に六つの首長国からなる「南アラビア首長国連邦」を結成します(その後1962年に4つが加わって「南アラビア連邦」になり。1965年までには「上ヤーフェア」首長国以外のすべての保護領の首長国が加盟しました)。この穏健派首長の抱き込みによる親英国の確保、実はアラビア半島の対岸でも同じ試みが行われていたのです。それが、現在のアラブ首長国連邦(UAE)です。UAEは今でも七つの首長国の連邦で、ドバイ、アブダビなどは中東でも指折りの近代都市になっていますね。
イギリスはこうした保守派首長国によってアデンの過激化する政治勢力を中和しようとしたのですが、ペルシャ湾岸のUAEのようには行きませんでした。それは、1962年に北隣のイエメンで共和国革命が起こり、南部イエメンの人々にも「革命熱」が広がったこと、さらに紅海を挟んだ向かいにはナセルのエジプトが控えており、ナセル大統領からの物心両面の支援が「アラブ民族主義」勢力に届きやすかったからです。
アデンで彼らは占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)を組織して独立闘争を継続します。今なら、イギリスやアメリカはナセルを「テロリスト」と呼ぶかもしれませんね。イギリスは1965年には「南アラビア連邦」の自治権を停止して直接統治に乗り出ますが、思い通りにはいかず妥協してFLOSYやその他のアデンの政治勢力、と南アラビアの首長国と独立方法について交渉を始めます。
ところが、時は冷戦時代で、アフリカに続々登場した社会主義政権同様、アデンにはFLOSYよりさらに急進的な社会主義勢力NLFが台頭、東側勢力からの支援を受けて1967年後半に首長国を次々と軍事的に攻略、同年10月にはアデンも支配下に置くまでなりました。イギリスはもはやアデンのコントロールをあきらめ、11月末にNLFと独立協定を結んであっけなく撤退しています。新生「南イエメン人民共和国」はアデン、旧アデン保護領、旧ハドラマうと保護領を統合して誕生します(1967年11月30日)。
この時点では、アデン以外の地域は決して社会主義に賛成していたわけではありません(南アラビア連邦の一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアに亡命しました)が、たまたまアデンを握っていたNLFがイギリスから政権を移譲されたことが、これ以降長く続くアデンの凋落の第一歩となるのです。この意味で、イギリスの無責任な権力放棄の罪は小さくありません。 【佐藤寛 2011/7/12】
2011年7月6日水曜日
【イエメンはどこに行く・11】《ティハマとアフリカ》
サレハ大統領が大統領府での爆発で重傷を負ってから一ヶ月が経過しました。サレハ大統領がサウジに手術のために出国したときに「これでサレハが退陣して、問題解決」という楽観的な見通しを出した人もいましたが、一ヶ月たっても事態は進展していません。すでにお話しししたように、私はサレハが一度帰国して退陣を表明することが安定的な政権移行には不可欠な前提条件と考えています。
今日、ロンドンでイエメンの民主化運動をサポートしている若者と話をする機会がありました。彼は、サレハがこのまま引退して「権力の空白」が出来たら民主化運動の代表者が話し合って今後の政治の行方に合意すれば良いのでは、と言います。もし、今サナアで様々な民主化運動をしている人たちが、イエメン全体を代表しているのならそれも可能かもしれません。しかし、私はサナアで起こっていることは決してイエメンの多くの国民の意向を反映しているとは思えません。前回お話したハドラマウトは「代表されていない」人々ですし、「ティハマ」の人々も同様です。
「ティハマ」は沿岸部を意味するアラビア語で、広義にはアラビア半島の西側から南側を取り巻く沿岸部を指しますが、主にイエメンの紅海沿岸部を指す言葉として使われます。ティハマは平均して幅60キロメートルくらいの砂地の平地で、そこから内側は急峻な山岳部がそそり立っています。山岳部には雨が降りますが、ティハマは灼熱の地で雨もほとんど降りません。山岳部に降った雨が紅海に向かって流れていく道筋がワーディーになっていて、ワーディーに沿った農業が行われています。ワーディーは海に届く前に蒸発して消えてしまいますが、山から出てきたあたりにダイバージョン・ダムを造って灌漑設備を作るという「開発計画」は1970年代に国際機関の援助によるイエメン最初の援助プロジェクトとして実施されたのです(残念ながら現在では十分なメンテナンスはなされていませんが)。
ティハマの対岸はスーダン南部とエリトリア(1994年にエチオピアから独立しました)で、イエメンの漁民は紅海を股にかけて漁をしており、両側に妻を持っている人も少なくないと言います。このため、エリトリアの沿岸部はイスラム教徒がほとんどで、用いられている言葉もイエメン方言のアラビア語でする(内陸部はキリスト教徒で用いられているのもアラビア語ではありません)。このため、ティハマの人々の方にもアフリカ系の血が混じっている人も多く、住居も山岳部の石造り、日干し煉瓦造りの方形の家とは異なり、いわゆる草葺き屋根の「マッシュルームハウス」が基本です。
産業は漁業と農業、製塩業、陶器作りなどですが、イエメンの中でも最も貧しい地域です。これは、アフリカ系の人々がイエメン政治の中では一段低く見られていることも影響しています。ティハマの農地はほとんど山岳部の部族が所有権を持っているといわれているのです。またティハマのアフリカ系の人々はかつてエチオピアとイエメンが戦争してイエメンが勝ったときに奴隷として連れてこられた人たちの子孫だという人もいます。シバの女王の遺跡がイエメン内陸部のマーリブと、エチオピア内陸部の両方にあるのも、その当時から紅海を挟んだ人の行き来があったことの証拠です。
また、1990年の湾岸危機(イラクのクウェート侵攻)の時に、サウジアラビアがイエメンのイラク支持に怒って国内から追放したイエメン系の人々が難民のようにして住み着いているキャンプもティハマにいくつかあって、貧困層の数を増しています。さらに、アデン湾側に回ると、ソマリアからの難民も続々と船に乗って漂流してきます。このように、ティハマは貧しく、またアフリカとの関係が強いのです。しかし、ソマリア難民以外のティハマの人々は立派なイエメン人です。ところが、彼らの代表者はあまりイエメンの政治に登場してきません。
紅海の沿岸には、北部イエメンの主要港であるホデイダ、かつてコーヒー貿易で栄えたモカ(モカコーヒーの名前はこの港にちなんでいます)などがありますが、ホデイダを押さえているのは山岳部の人々だし、モカ港は完全にさびれています。一言で言えば、ティハマの人々は「忘れ去られて」いるのです。おかげで、これまでイエメン国内で様々な内戦があっても、ティハマは常に「蚊帳の外」だったので、平和が保たれてきたということはあります。
今回の政治的混乱がどのような形で沈静化するとしても、今後はティハマの発展、ととりわけ保健(マラリアも定期的に流行しますし、アフリカからの難民などの流入でHIVエイズの蔓延も危惧されます)、教育の充実が適切に配慮されるべきでしょう。ティハマの人々がある程度安定的に生活できるようになれば、対岸のアフリカにも良い影響を及ぼすでしょうし、アフリカからの難民に一定程度の教育や職業訓練を施すことは、将来の「アフリカの角」の安定化にも寄与するでしょう。それ以上に、サナアを舞台に北部部族勢力の人々だけが権力をたらい回しする状況を放置しないためにも、ティハマの発言力強化は意味があると思います。【佐藤寛 2011/7/6】
今日、ロンドンでイエメンの民主化運動をサポートしている若者と話をする機会がありました。彼は、サレハがこのまま引退して「権力の空白」が出来たら民主化運動の代表者が話し合って今後の政治の行方に合意すれば良いのでは、と言います。もし、今サナアで様々な民主化運動をしている人たちが、イエメン全体を代表しているのならそれも可能かもしれません。しかし、私はサナアで起こっていることは決してイエメンの多くの国民の意向を反映しているとは思えません。前回お話したハドラマウトは「代表されていない」人々ですし、「ティハマ」の人々も同様です。
「ティハマ」は沿岸部を意味するアラビア語で、広義にはアラビア半島の西側から南側を取り巻く沿岸部を指しますが、主にイエメンの紅海沿岸部を指す言葉として使われます。ティハマは平均して幅60キロメートルくらいの砂地の平地で、そこから内側は急峻な山岳部がそそり立っています。山岳部には雨が降りますが、ティハマは灼熱の地で雨もほとんど降りません。山岳部に降った雨が紅海に向かって流れていく道筋がワーディーになっていて、ワーディーに沿った農業が行われています。ワーディーは海に届く前に蒸発して消えてしまいますが、山から出てきたあたりにダイバージョン・ダムを造って灌漑設備を作るという「開発計画」は1970年代に国際機関の援助によるイエメン最初の援助プロジェクトとして実施されたのです(残念ながら現在では十分なメンテナンスはなされていませんが)。
ティハマの対岸はスーダン南部とエリトリア(1994年にエチオピアから独立しました)で、イエメンの漁民は紅海を股にかけて漁をしており、両側に妻を持っている人も少なくないと言います。このため、エリトリアの沿岸部はイスラム教徒がほとんどで、用いられている言葉もイエメン方言のアラビア語でする(内陸部はキリスト教徒で用いられているのもアラビア語ではありません)。このため、ティハマの人々の方にもアフリカ系の血が混じっている人も多く、住居も山岳部の石造り、日干し煉瓦造りの方形の家とは異なり、いわゆる草葺き屋根の「マッシュルームハウス」が基本です。
産業は漁業と農業、製塩業、陶器作りなどですが、イエメンの中でも最も貧しい地域です。これは、アフリカ系の人々がイエメン政治の中では一段低く見られていることも影響しています。ティハマの農地はほとんど山岳部の部族が所有権を持っているといわれているのです。またティハマのアフリカ系の人々はかつてエチオピアとイエメンが戦争してイエメンが勝ったときに奴隷として連れてこられた人たちの子孫だという人もいます。シバの女王の遺跡がイエメン内陸部のマーリブと、エチオピア内陸部の両方にあるのも、その当時から紅海を挟んだ人の行き来があったことの証拠です。
また、1990年の湾岸危機(イラクのクウェート侵攻)の時に、サウジアラビアがイエメンのイラク支持に怒って国内から追放したイエメン系の人々が難民のようにして住み着いているキャンプもティハマにいくつかあって、貧困層の数を増しています。さらに、アデン湾側に回ると、ソマリアからの難民も続々と船に乗って漂流してきます。このように、ティハマは貧しく、またアフリカとの関係が強いのです。しかし、ソマリア難民以外のティハマの人々は立派なイエメン人です。ところが、彼らの代表者はあまりイエメンの政治に登場してきません。
紅海の沿岸には、北部イエメンの主要港であるホデイダ、かつてコーヒー貿易で栄えたモカ(モカコーヒーの名前はこの港にちなんでいます)などがありますが、ホデイダを押さえているのは山岳部の人々だし、モカ港は完全にさびれています。一言で言えば、ティハマの人々は「忘れ去られて」いるのです。おかげで、これまでイエメン国内で様々な内戦があっても、ティハマは常に「蚊帳の外」だったので、平和が保たれてきたということはあります。
今回の政治的混乱がどのような形で沈静化するとしても、今後はティハマの発展、ととりわけ保健(マラリアも定期的に流行しますし、アフリカからの難民などの流入でHIVエイズの蔓延も危惧されます)、教育の充実が適切に配慮されるべきでしょう。ティハマの人々がある程度安定的に生活できるようになれば、対岸のアフリカにも良い影響を及ぼすでしょうし、アフリカからの難民に一定程度の教育や職業訓練を施すことは、将来の「アフリカの角」の安定化にも寄与するでしょう。それ以上に、サナアを舞台に北部部族勢力の人々だけが権力をたらい回しする状況を放置しないためにも、ティハマの発言力強化は意味があると思います。【佐藤寛 2011/7/6】
2011年7月2日土曜日
【イエメンはどこに行く・10】《ハドラマウト・後編》
ハドラマウトに行くと、イエメンの他の地域とはモスクの様式が異なっていることに気づきます。山岳部イエメンのモスクのミナレットは円柱形で、漆喰の白と日干し煉瓦の茶色のいずれかの色が多いのですが、ハドラマウトのミナレットは細い角柱形で、一番上にバルコニー形式の吹き抜けのスペース(本来は礼拝を呼びかける人がそこに立って朗唱した場所ですが、今はラウドスピーカの設置場所)が付いています。そして淡いピンクやブル-、緑などのパステルカラーで彩色されています。
人々の顔つきも、山岳部アラブは彫りの深い厳しい顔立ちですが、ハドラマウトに来るとアジア系の血が混じったやや鼻の低い温和な顔立ちが目立ちます。ハドラマウトは旧南イエメン時代はアデンと並ぶ人材供給源で、イエメン社会党はアデン系の人々とハドラマウト系の人々によって支えられていました。しかしながら、1994年の内戦でハドラマウト出身のアルビード副大統領が失脚して以降は、ハドラマウト系の人々の発言力は低下します。
南北イエメンが統一されて、社会主義的な政策が崩壊したことは、経済活動に活路を見いだすハドラミー(ハドラマウトの)商人にとっては朗報でした。しかしながら統一に伴って政府の機能の多くと主立った政治家はサナアに移ってしまい、彼らの活躍の舞台であったアデンは首都の地位を失って重要性が低下してしまいます。
また、高原都市である首都サナアは灼熱のハドラマウト渓谷(夏には50度を超えることもあります)に比べて寒すぎ(冬には霜が降りることもあります)て住みにくく、また「野蛮」な山岳地イエメン人の支配する政府とハドラマウト商人とはなかなかそりが合いません。こうしてハドラミーはイエメンの政治・経済の蚊帳の外に置かれてしまうのです。
しかも、サナアの中央政府からはハドラマウト地方の開発はさらに後回しにされがちであるばかりでなく、「行政改革」の名の下に従来のハドラマウト州を海岸部(港町ムカッラが中心)と内陸部(ワーディーのオアシス都市セイユーン中心)に分割するという提案があり、これに対してはハドラミーは猛反発しています。確かに他の18州に比べてハドラマウト州の面積は不釣り合いに大きいのは事実ですが、ハドラミーとしてのアイデンティティーを強く持つ彼らにとっては分割は受け入れられないのです。こうした不満の果てに、一部では「ハドラマウト独立」を唱える声出てくる始末です。
今回の民主化デモはサナアを中心に盛り上がっていますが、ハドラマウトの人々がこれにどのようにコミットしているのかは明らかではありません。しかしながら、ハドラミーにしてみれば、誰が政権を取るにせよ「とにかく我々の好きなようにさせてくれ」というのが本音でしょう。実際に、彼ら自身で地元の発展を計画し、実施していく能力は確実にあると考えられます。それなのに、中央政府から任命されてくる軍人や知事が行き勝手なことばかりするから発展できないのだ、というのが彼らの偽らざる心情なのです。
では、今後ハドラマウトはどうなるのでしょう。イエメン全体の発展のためにも、特に潜在力の高いハドラマウトは、ハドラマウト人自身による開発計画にゆだねるべきでしょう。その基本は人的資本を活用した自由な商業活動による発展です。そして東アフリカ、東南アジア、南アジア、さらにはサウジアラビアの財閥とのネットワークという財産を最大限活用できるような活動の自由を与えることが望ましいのだと思います。 ハドラマウトにとっては、サナアの政権が誰の手に落ちようとも直接的には関係ありません。その意味で今回の一連の騒動の影響は限定的でしょう。しかし、新たな政権がこれまで通りハドラマウトを軽視したり、過度に制約を課したりすることは南アラビア全体、アラビア半島全体の安定にとって望ましくない事態を招きかねないと思います。
【佐藤寛 2011/7/2】
人々の顔つきも、山岳部アラブは彫りの深い厳しい顔立ちですが、ハドラマウトに来るとアジア系の血が混じったやや鼻の低い温和な顔立ちが目立ちます。ハドラマウトは旧南イエメン時代はアデンと並ぶ人材供給源で、イエメン社会党はアデン系の人々とハドラマウト系の人々によって支えられていました。しかしながら、1994年の内戦でハドラマウト出身のアルビード副大統領が失脚して以降は、ハドラマウト系の人々の発言力は低下します。
南北イエメンが統一されて、社会主義的な政策が崩壊したことは、経済活動に活路を見いだすハドラミー(ハドラマウトの)商人にとっては朗報でした。しかしながら統一に伴って政府の機能の多くと主立った政治家はサナアに移ってしまい、彼らの活躍の舞台であったアデンは首都の地位を失って重要性が低下してしまいます。
また、高原都市である首都サナアは灼熱のハドラマウト渓谷(夏には50度を超えることもあります)に比べて寒すぎ(冬には霜が降りることもあります)て住みにくく、また「野蛮」な山岳地イエメン人の支配する政府とハドラマウト商人とはなかなかそりが合いません。こうしてハドラミーはイエメンの政治・経済の蚊帳の外に置かれてしまうのです。
しかも、サナアの中央政府からはハドラマウト地方の開発はさらに後回しにされがちであるばかりでなく、「行政改革」の名の下に従来のハドラマウト州を海岸部(港町ムカッラが中心)と内陸部(ワーディーのオアシス都市セイユーン中心)に分割するという提案があり、これに対してはハドラミーは猛反発しています。確かに他の18州に比べてハドラマウト州の面積は不釣り合いに大きいのは事実ですが、ハドラミーとしてのアイデンティティーを強く持つ彼らにとっては分割は受け入れられないのです。こうした不満の果てに、一部では「ハドラマウト独立」を唱える声出てくる始末です。
今回の民主化デモはサナアを中心に盛り上がっていますが、ハドラマウトの人々がこれにどのようにコミットしているのかは明らかではありません。しかしながら、ハドラミーにしてみれば、誰が政権を取るにせよ「とにかく我々の好きなようにさせてくれ」というのが本音でしょう。実際に、彼ら自身で地元の発展を計画し、実施していく能力は確実にあると考えられます。それなのに、中央政府から任命されてくる軍人や知事が行き勝手なことばかりするから発展できないのだ、というのが彼らの偽らざる心情なのです。
では、今後ハドラマウトはどうなるのでしょう。イエメン全体の発展のためにも、特に潜在力の高いハドラマウトは、ハドラマウト人自身による開発計画にゆだねるべきでしょう。その基本は人的資本を活用した自由な商業活動による発展です。そして東アフリカ、東南アジア、南アジア、さらにはサウジアラビアの財閥とのネットワークという財産を最大限活用できるような活動の自由を与えることが望ましいのだと思います。 ハドラマウトにとっては、サナアの政権が誰の手に落ちようとも直接的には関係ありません。その意味で今回の一連の騒動の影響は限定的でしょう。しかし、新たな政権がこれまで通りハドラマウトを軽視したり、過度に制約を課したりすることは南アラビア全体、アラビア半島全体の安定にとって望ましくない事態を招きかねないと思います。
【佐藤寛 2011/7/2】
2011年6月28日火曜日
【イエメンはどこに行く・9】《ハドラマウト・前編》
ハドラマウトは、イエメンに19ある州のうち最大の面積を持つ州で、イエメンの東部のかなり大きな部分を占めていますが、定住地は海岸沿いと内陸のハドラマウト渓谷に限られるので人口はそれほど多くありません。オマーンとの間にマハラ州がありますが、こちらはさらに人口密度の少ない地域です。
ハドラマウト人は、イエメン国内の他の地域とは少し異なる独自の歴史とアイデンティティーを持っています。 アラブの血統学上ハドラマウトの人々はやはりカハタン(純粋アラブ)の系譜に位置づけられますが、ハドラマウト以西のイエメンの人々とは、かなり早い段階で枝分かれした系譜を持っており、その始祖の名前が「ハドラマウト」です。
そしてシバの女王で有名な古代南アラビア王国の時代(紀元前10~紀元1世紀)には山岳部イエメン、内陸砂漠部イエメンとともに南アラビアの一部を構成していましたが、それ以降は山岳部イエメンとは緩やかなつながりしか持っていませんでした。 紀元(正確にはキリスト歴というべきですが)7世紀にメッカで預言者ムハンマドがイスラム教を唱え始めると、ハドラマウトの人々は早い段階でイスラム教に帰依し、イスラム帝国が北アフリカに進出したときにはその先兵となって活躍したのがハドラマウト人だったと言われています。
その後、イスラム帝国の首都がバクダードにあったアッバース朝期(8世紀~13世紀)には『千夜一夜物語』の「シンドバードの冒険」のようにインド洋の航海をアラブ商人が支配する時代がやってきます。このアッバース朝末期にインド・東南アジア方面にイスラム教を広めたのは、ハドラマウト商人たちだったのです(ハイデラバードの語源がハドラマウトだという人もいます)。東南アジアにイスラム王国が発生するのは13世紀以降ですが、その王家の多くはハドラマウト系のアラブ人と現地の女性との混血家系です。ちなみに、現在のブルネイ王家はハドラマウトを出自としています。
ハドラマウトからこのように多くの人が海外に出て行く原因は人口圧力です。ハドラマウト渓谷は降雨のほとんどない乾燥気候で、アラビア半島内陸部・山岳部に降った雨がインド洋に流れ出す涸れ川(ワーディー)に依存したオアシス農業しか産業がないため、人口が増えれば外部に出ていくしかないのです。このため、ハドラマウト人(ハドラミー)は世界的な視野を持ち、商売に長けているとされています。一部では「アラブの中のユダヤ人」と呼ぶ人もいますし、昭和初期の日本人アラビストは「アラブの近江商人」と呼んでいたこともあります。
19世紀前半にイギリスが軍事力でアデンを占領した頃、ハドラマウトにはカーイティー、カシーリーの両スルタン王国がありました。ハドラマウトがイギリスの保護領になって以降も独自の国境を維持することが認められており、1968年の南イエメン独立以前にこの地域を旅行するためには、スルタン王国のビザを取得しなければならなかったそうです。
また、シンガポール、アチェ、ジャカルタ、スラバヤなどの東南アジアの港湾都市には現在に至るまでハドラマウト系の家系が少なからずあります。こうした人々はアラブ名を名乗るばかりでなく、息子が13-14才になると数年間「故郷」ハドラマウトに留学させ、アラビア語とイスラム教を徹底的にたたき込ませ、さらにメッカ巡礼もして「ハジ」の称号を得て、一人前の「アラブ人」になって里帰りさせるという習慣が今でも残っています。ハドラマウト渓谷のオアシス都市の一つタリームにはこうした海外ハドラミーの子弟が通う寄宿舎生学校があり、そこにはアフリカからやってきた混血のハドラミー留学生もいます。こうした教育施設が、イスラム原理主義的な思想が世界に広まる拠点の一つになっているのではないか、と言う人もいます。
第二次世界大戦後、まだ南イエメンがイギリス保護領だった頃に「ハドラマウ独立」を目指す動きは、知識人を中心に、なんとインドネシアのジャカルタで旗揚げしたのだそうです。また、メッカに巡礼に行ってそのまま居着いたハドラミーの中にはサウジの港湾都市ジェッダを根拠にビジネスで成功し、サウジの大財閥に仲間入りした家系も少なくありません。オサマ・ビンラーデンの属する「ビン・ラーデン」家もこの例です。このように海外で成功したハドラミーは、決して故郷とのつながりを切らずに故郷に送金したり投資したりするので、社会主義政権下の南イエメン時代、アデンよりもハドラマウトの方が社会インフラは充実していたとされています。
ハドラミーは他のイエメン人と比べると温和で、争いを好まず、教育程度も比較的高いのですが、他のイエメン人からは「けち」と陰口をたたかれています。1990年の南北統一でアデンの社会主義政権が崩壊して以降、サウジのハドラマウト系財閥は一時競ってアデンに投資をしました。このためアデンにはサナアよりも設備の良いホテルや、大きなショッピングセンターも出来ています。ただ、アデン自由港の計画がちっとも進まないので、開店休業状態ですが。さて、こうしたハドラミーたちは、今後のイエメンにとってどんな役割を担うことになるのでしょうか。それを次回考えてみたいと思います。
【佐藤寛 2011/6/27】
ハドラマウト人は、イエメン国内の他の地域とは少し異なる独自の歴史とアイデンティティーを持っています。 アラブの血統学上ハドラマウトの人々はやはりカハタン(純粋アラブ)の系譜に位置づけられますが、ハドラマウト以西のイエメンの人々とは、かなり早い段階で枝分かれした系譜を持っており、その始祖の名前が「ハドラマウト」です。
そしてシバの女王で有名な古代南アラビア王国の時代(紀元前10~紀元1世紀)には山岳部イエメン、内陸砂漠部イエメンとともに南アラビアの一部を構成していましたが、それ以降は山岳部イエメンとは緩やかなつながりしか持っていませんでした。 紀元(正確にはキリスト歴というべきですが)7世紀にメッカで預言者ムハンマドがイスラム教を唱え始めると、ハドラマウトの人々は早い段階でイスラム教に帰依し、イスラム帝国が北アフリカに進出したときにはその先兵となって活躍したのがハドラマウト人だったと言われています。
その後、イスラム帝国の首都がバクダードにあったアッバース朝期(8世紀~13世紀)には『千夜一夜物語』の「シンドバードの冒険」のようにインド洋の航海をアラブ商人が支配する時代がやってきます。このアッバース朝末期にインド・東南アジア方面にイスラム教を広めたのは、ハドラマウト商人たちだったのです(ハイデラバードの語源がハドラマウトだという人もいます)。東南アジアにイスラム王国が発生するのは13世紀以降ですが、その王家の多くはハドラマウト系のアラブ人と現地の女性との混血家系です。ちなみに、現在のブルネイ王家はハドラマウトを出自としています。
ハドラマウトからこのように多くの人が海外に出て行く原因は人口圧力です。ハドラマウト渓谷は降雨のほとんどない乾燥気候で、アラビア半島内陸部・山岳部に降った雨がインド洋に流れ出す涸れ川(ワーディー)に依存したオアシス農業しか産業がないため、人口が増えれば外部に出ていくしかないのです。このため、ハドラマウト人(ハドラミー)は世界的な視野を持ち、商売に長けているとされています。一部では「アラブの中のユダヤ人」と呼ぶ人もいますし、昭和初期の日本人アラビストは「アラブの近江商人」と呼んでいたこともあります。
19世紀前半にイギリスが軍事力でアデンを占領した頃、ハドラマウトにはカーイティー、カシーリーの両スルタン王国がありました。ハドラマウトがイギリスの保護領になって以降も独自の国境を維持することが認められており、1968年の南イエメン独立以前にこの地域を旅行するためには、スルタン王国のビザを取得しなければならなかったそうです。
また、シンガポール、アチェ、ジャカルタ、スラバヤなどの東南アジアの港湾都市には現在に至るまでハドラマウト系の家系が少なからずあります。こうした人々はアラブ名を名乗るばかりでなく、息子が13-14才になると数年間「故郷」ハドラマウトに留学させ、アラビア語とイスラム教を徹底的にたたき込ませ、さらにメッカ巡礼もして「ハジ」の称号を得て、一人前の「アラブ人」になって里帰りさせるという習慣が今でも残っています。ハドラマウト渓谷のオアシス都市の一つタリームにはこうした海外ハドラミーの子弟が通う寄宿舎生学校があり、そこにはアフリカからやってきた混血のハドラミー留学生もいます。こうした教育施設が、イスラム原理主義的な思想が世界に広まる拠点の一つになっているのではないか、と言う人もいます。
第二次世界大戦後、まだ南イエメンがイギリス保護領だった頃に「ハドラマウ独立」を目指す動きは、知識人を中心に、なんとインドネシアのジャカルタで旗揚げしたのだそうです。また、メッカに巡礼に行ってそのまま居着いたハドラミーの中にはサウジの港湾都市ジェッダを根拠にビジネスで成功し、サウジの大財閥に仲間入りした家系も少なくありません。オサマ・ビンラーデンの属する「ビン・ラーデン」家もこの例です。このように海外で成功したハドラミーは、決して故郷とのつながりを切らずに故郷に送金したり投資したりするので、社会主義政権下の南イエメン時代、アデンよりもハドラマウトの方が社会インフラは充実していたとされています。
ハドラミーは他のイエメン人と比べると温和で、争いを好まず、教育程度も比較的高いのですが、他のイエメン人からは「けち」と陰口をたたかれています。1990年の南北統一でアデンの社会主義政権が崩壊して以降、サウジのハドラマウト系財閥は一時競ってアデンに投資をしました。このためアデンにはサナアよりも設備の良いホテルや、大きなショッピングセンターも出来ています。ただ、アデン自由港の計画がちっとも進まないので、開店休業状態ですが。さて、こうしたハドラミーたちは、今後のイエメンにとってどんな役割を担うことになるのでしょうか。それを次回考えてみたいと思います。
【佐藤寛 2011/6/27】
2011年6月22日水曜日
【イエメンはどこに行く・7】《南部分離派》
1990年の南北無血統一は偉業でした。しかし、同時に偉大な妥協の産物でもありました。サレハ大統領はこうした妥協工作には非凡な能力を示します。
統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度で、人口比では圧倒的に北が優勢でした。このため、大統領には北のサレハが就任し、副大統領と首相は南から出すことになります。また、これまで内戦を繰り返していたために、旧南北それぞれの秘密警察は「反体制派」に関するファイルを蓄積してきたのですが、もう国境紛争の心配がなくなったので、これらのはファイルは破棄されました。これは南北両政府間の信頼醸成のためには不可欠な措置でした。
妥協はたくさんあります。 国旗は旧南北イエメンの共通部分を取って上から赤白黒の三色旗になりました。首都は北のサナアで、アデンは「経済首都」と名付けられました。国歌は南のものが採用され、通貨もしばらくの間は両国のものが固定レートで相互に流通しました。統合によってなるべく失職する人が出ないように、閣僚の数は40人ほどに膨れあがり、大臣が北なら副大臣は南という具合にバランスに気を遣った人事を行いました。そして何よりも重大なことは、軍は統合されず南北それぞれの軍隊がそのまま残り、北の軍隊が南に、南の軍隊が北に配置されたことでした。
統合を機に複数政党制が導入され国会議員選挙も行われるようになりました。サレハ大統領の翼賛政党である「統合人民会議」には政府の主立った人たちが入っていますが、これ以外に北部部族勢力と一部のイスラム勢力が結びついた「イスラーハ」党が結成され、旧北部部族地域を中心に支持を獲得しました。他方旧南イエメンの支配政党だった「イエメン社会党」も生き残り、南部を中心に支持を得ていました。そしてこの両政党が全く正反対な主張を展開しはじめます。イスラーハは保守的でイスラム法(シャリーア)に則った憲法を主張したのに対して、イエメン社会党は社会主義的な色合いの強い憲法を求めます。
また、人口比で劣る南の人材に政治的なポストが与えられすぎると不満を漏らす北の人がいる一方で、首都がサナアになったためにアデンから単身赴任しなければならなくなった人たちもサナアは住みにくいと文句を言います。統合の熱気が冷めるにつれて、こうした不満、不信感が募っていきました。しかしサレハ大統領はこれまで通り明確に政治的イニシアチブは取らないままです。サレハ大統領は政敵を取り込み、対立する人々を妥協させることにはたけていますが、明確なビジョンを示して国を引っ張っていくことは不得意なのです。
1993年後半になるとイスラーハ党関係者によるイエメン社会党関係者の襲撃なども起こり、南出身のアルビード副大統領が「サナアでは身の安全が守れない」と言ってアデンに引きこもってしまいます。この背景には首都の地位を失い、「自由港構想」が打ち上げられながら全くアデンの開発に予算が回って来ないことに堪忍袋の緒を切らしたアデン市民の声がありました。このときにもカタールなどGCC諸国が調停に入り、サレハ大統領とアルビード副大統領がサナアとアデンの真ん中にあるタイズで和解会合を行ったりしました。
しかし、事態は好転せずそれぞれ敵地に配備されていた旧南北軍が別々の指揮系統で衝突をし始め、1994年5月4日に内戦が始まってしまいます。これは、1990年に軍を統一することを先延ばしにしたことの、必然的な結果であったと言えます。ただ、戦況は北側に有利で、1986年のアデン政変で追放されていたアリー・ナーセル前南イエメン大統領派も北軍に合流、さらにイスラーハ勢力と北部部族勢力も北軍に合流したために、6月末にはアデン以外は鎮圧されます。籠城状態になったアルビード派はアデンで「南イエメン国」の独立を宣言しますが、結局7月7日に陥落。アルビード副大統領、アッタール首相らはサウジに亡命して内戦は決着しました。
この内戦の結果、旧南の軍隊はすべて武装解除され軍事的な抵抗力を剥奪されてしまいます。これで内戦再発の可能性はほとんどなくなりました。アルビードに代わる副大統領にはアリー・ナーセル派のハーディー氏が就任します。内戦後、サレハ大統領は政治的、経済的に重要なアデンの不満をなだめるために頻繁にアデンを訪問し、かつ反乱分子を取り締まるために腹心の政治家をアデン市長に任命します。また、内戦後も現在に至るまで基本的に南出身の首相が続くのは南イエメンの人々の声を決して無視していないという姿勢を見せるためでしょう。
しかし懐柔策を示しても、基本的に統一国家における旧南イエメン地域の「軽視」は否定しがたく、旧南の諸州の知事に北の軍人が天下ってきて、好き勝手なことをして私腹を肥やすという不満も鬱積しています。また、武装解除によって失業した軍人たちは年金支払いの遅延などで、満足に家族を養えないという状況に追い詰められています。こうした人々は、数年前から南の地方都市でデモや示威行動を行うようになりました。時には道路を封鎖したり治安部隊と衝突したりという事件もしばしば報道されていました。これが、現在の「南部分離派」の動きの底流なのです。
今年(2011年)6月初めのサレハ大統領負傷後の権力の空白を利用して、旧南イエメンのいくつかの都市(特にラヘジ州、アブヤン州、ダーレア州など)で武装勢力が治安部隊から支配権を奪ったという報道がなされています。欧米メディアはこれを「アルカーイダ系」と説明していますが、部分的な支援関係はあるとしても基本は「南部分離派」の人々だと思います。そして、南部分離派はサレハ政権の崩壊のためには、どのような外部勢力とも協力するでしょうが、彼らがアルカーイダと共闘することなどあり得ません。アデンの市民がそんなことを望む理由はないのです。彼らは自分たちの力で自由港を再構築したいと考えているのです。グローバル経済に背を向ける政策などあり得ません。
私はサレハ大統領は、いずれかの段階で(望むらくは自主的に)退陣すると見ていますが、それによって現在の混乱が収まったとしても、旧南イエメンの人々の「統一国家」に対する失望には根深いものがあり、この問題に真剣に取り組まない限り統一イエメンの将来はありません。これは、イエメンにとってはアルカーイダ系の勢力が数百人程度いることとは比べものにならならいほどの重大問題であり、アラビア半島全体の安定にとっても無視できない問題なのです。
【佐藤寛 2011/6/22】
統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度で、人口比では圧倒的に北が優勢でした。このため、大統領には北のサレハが就任し、副大統領と首相は南から出すことになります。また、これまで内戦を繰り返していたために、旧南北それぞれの秘密警察は「反体制派」に関するファイルを蓄積してきたのですが、もう国境紛争の心配がなくなったので、これらのはファイルは破棄されました。これは南北両政府間の信頼醸成のためには不可欠な措置でした。
妥協はたくさんあります。 国旗は旧南北イエメンの共通部分を取って上から赤白黒の三色旗になりました。首都は北のサナアで、アデンは「経済首都」と名付けられました。国歌は南のものが採用され、通貨もしばらくの間は両国のものが固定レートで相互に流通しました。統合によってなるべく失職する人が出ないように、閣僚の数は40人ほどに膨れあがり、大臣が北なら副大臣は南という具合にバランスに気を遣った人事を行いました。そして何よりも重大なことは、軍は統合されず南北それぞれの軍隊がそのまま残り、北の軍隊が南に、南の軍隊が北に配置されたことでした。
統合を機に複数政党制が導入され国会議員選挙も行われるようになりました。サレハ大統領の翼賛政党である「統合人民会議」には政府の主立った人たちが入っていますが、これ以外に北部部族勢力と一部のイスラム勢力が結びついた「イスラーハ」党が結成され、旧北部部族地域を中心に支持を獲得しました。他方旧南イエメンの支配政党だった「イエメン社会党」も生き残り、南部を中心に支持を得ていました。そしてこの両政党が全く正反対な主張を展開しはじめます。イスラーハは保守的でイスラム法(シャリーア)に則った憲法を主張したのに対して、イエメン社会党は社会主義的な色合いの強い憲法を求めます。
また、人口比で劣る南の人材に政治的なポストが与えられすぎると不満を漏らす北の人がいる一方で、首都がサナアになったためにアデンから単身赴任しなければならなくなった人たちもサナアは住みにくいと文句を言います。統合の熱気が冷めるにつれて、こうした不満、不信感が募っていきました。しかしサレハ大統領はこれまで通り明確に政治的イニシアチブは取らないままです。サレハ大統領は政敵を取り込み、対立する人々を妥協させることにはたけていますが、明確なビジョンを示して国を引っ張っていくことは不得意なのです。
1993年後半になるとイスラーハ党関係者によるイエメン社会党関係者の襲撃なども起こり、南出身のアルビード副大統領が「サナアでは身の安全が守れない」と言ってアデンに引きこもってしまいます。この背景には首都の地位を失い、「自由港構想」が打ち上げられながら全くアデンの開発に予算が回って来ないことに堪忍袋の緒を切らしたアデン市民の声がありました。このときにもカタールなどGCC諸国が調停に入り、サレハ大統領とアルビード副大統領がサナアとアデンの真ん中にあるタイズで和解会合を行ったりしました。
しかし、事態は好転せずそれぞれ敵地に配備されていた旧南北軍が別々の指揮系統で衝突をし始め、1994年5月4日に内戦が始まってしまいます。これは、1990年に軍を統一することを先延ばしにしたことの、必然的な結果であったと言えます。ただ、戦況は北側に有利で、1986年のアデン政変で追放されていたアリー・ナーセル前南イエメン大統領派も北軍に合流、さらにイスラーハ勢力と北部部族勢力も北軍に合流したために、6月末にはアデン以外は鎮圧されます。籠城状態になったアルビード派はアデンで「南イエメン国」の独立を宣言しますが、結局7月7日に陥落。アルビード副大統領、アッタール首相らはサウジに亡命して内戦は決着しました。
この内戦の結果、旧南の軍隊はすべて武装解除され軍事的な抵抗力を剥奪されてしまいます。これで内戦再発の可能性はほとんどなくなりました。アルビードに代わる副大統領にはアリー・ナーセル派のハーディー氏が就任します。内戦後、サレハ大統領は政治的、経済的に重要なアデンの不満をなだめるために頻繁にアデンを訪問し、かつ反乱分子を取り締まるために腹心の政治家をアデン市長に任命します。また、内戦後も現在に至るまで基本的に南出身の首相が続くのは南イエメンの人々の声を決して無視していないという姿勢を見せるためでしょう。
しかし懐柔策を示しても、基本的に統一国家における旧南イエメン地域の「軽視」は否定しがたく、旧南の諸州の知事に北の軍人が天下ってきて、好き勝手なことをして私腹を肥やすという不満も鬱積しています。また、武装解除によって失業した軍人たちは年金支払いの遅延などで、満足に家族を養えないという状況に追い詰められています。こうした人々は、数年前から南の地方都市でデモや示威行動を行うようになりました。時には道路を封鎖したり治安部隊と衝突したりという事件もしばしば報道されていました。これが、現在の「南部分離派」の動きの底流なのです。
今年(2011年)6月初めのサレハ大統領負傷後の権力の空白を利用して、旧南イエメンのいくつかの都市(特にラヘジ州、アブヤン州、ダーレア州など)で武装勢力が治安部隊から支配権を奪ったという報道がなされています。欧米メディアはこれを「アルカーイダ系」と説明していますが、部分的な支援関係はあるとしても基本は「南部分離派」の人々だと思います。そして、南部分離派はサレハ政権の崩壊のためには、どのような外部勢力とも協力するでしょうが、彼らがアルカーイダと共闘することなどあり得ません。アデンの市民がそんなことを望む理由はないのです。彼らは自分たちの力で自由港を再構築したいと考えているのです。グローバル経済に背を向ける政策などあり得ません。
私はサレハ大統領は、いずれかの段階で(望むらくは自主的に)退陣すると見ていますが、それによって現在の混乱が収まったとしても、旧南イエメンの人々の「統一国家」に対する失望には根深いものがあり、この問題に真剣に取り組まない限り統一イエメンの将来はありません。これは、イエメンにとってはアルカーイダ系の勢力が数百人程度いることとは比べものにならならいほどの重大問題であり、アラビア半島全体の安定にとっても無視できない問題なのです。
【佐藤寛 2011/6/22】
2011年6月20日月曜日
【イエメンはどこに行く・6】《南北イエメン分断史》
現在のイエメン政治における二大問題のもう一つは南部イエメン分離派です。この南部分離派の背景を理解するために、まず100年にわたる南北イエメン分断史をおさらいしておきましょう。
そもそも南北イエメンが分離したきっかけは、イギリスが作りました。19世紀前半にスエズ運河からインド洋に抜ける海路の要衝アデン港を保護領としていたイギリスは、自らの中東地域における権益を守るために、20世紀初頭にこの地域に名目的な宗主権を持っていたオスマントルコとアラビア半島分割条約を結びました。その分割線はアフリカの国境線同様きわめていい加減なもので、紅海の入り口バブアルマンデブ海峡からペルシャ湾のバハレーン島までを一直線に結んだのです。
しかし、その頃実際にイエメン北部を支配していたのは、イスラム教ザイド派のイマームであり、トルコではありませんでした。そしてイマームはイギリスに支配されている南部イエメンを含めたイエメン統一を目指していました。ところがこのイマームの頭越しにイギリスとトルコが勝手に南北イエメンを分断したわけです。以来、南北イエメンの統一はイエメン人の悲願となりました。
第一次世界大戦の敗戦でオスマントルコ帝国は凋落し、トルコの宗主権から離れた北イエメンは「イエメン・ムタワッキル王国」として国際社会に認知されました。一方アデンは「世界で2番目に船舶寄港数の多い港」となって大英帝国の拠点として栄えていたため、イギリスはアデンの周辺地域へも支配を拡大していき、南イエメン全域がイギリスの保護領となりました。
こうして第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、アデンはアラブ地域の先進近代都市となり、教育水準も向上して北イエメンとの国境地域(タイズ周辺)からも多くの移民が流入し始めました。アデンで教育を受けた人々の中には、さらにアデンから船に乗って世界に飛び出した人々も多く、イギリスのリバプール、アメリカのデトロイト、カリフォルニアなどにはこの頃から「イエメン人コミュニティー」が出来はじめます。他方、北イエメンでは鎖国政策が敷かれていたため、様々な側面で近代化が進まずアラブで最も遅れた国になってしまいます。こうして「進んだ南、遅れた北」という構図が成立します。
第二次世界大戦後、多くの英領植民地は独立しましたが、アデンの重要性からアイギリスは南イエメンを手放しませんでした。かたや、アラブ世界ではエジプトにナセル大統領が登場し、アラブ民族主義・アラブ式社会主義の理念を多くのアラブの若者に訴えました。これを受けて北イエメンでは1962年にイマームを打倒する軍事革命が発生し、サナアを首都とする「イエメンアラブ・共和国」が誕生します(9月26日革命)。このとき、革命政権はアデンもイギリスの手から奪って統一イエメンを実現しようとしていましたし、アデンにもこれに呼応しようとする勢力がありました。
しかしイギリスはアデン(南イエメン)の分離を許さず、かつイマーム王政が打倒されることに危機感を抱いたサウジアラビア、ヨルダンなどのアラブ王政国家が、逃げ延びたイマームを資金的・軍事的に支援したため、北イエメンでは「王政派対共和国派」の内戦状態になります。このため、革命政府は南イエメンのイギリスからの奪回に力を割くことが出来なくなります。
他方、アデンではブリティッシュ・ペトロリアム(BP)製油所の労働者などが中心となって反英独立闘争が活性化し、1963年には南北イエメン国境に近いアブヤンで最初の武力行動が始まります(10月14日革命)。当初イギリスはこうした動きを武力で押さえつけていましたが、最終的には労働党政権下でスエズ以南の植民地放棄を決断、南イエメンも1967年に独立するスケジュールが決まりました。イギリスは南イエメンの穏健派に政権を委譲しようとしていましたが、ナセル・エジプト大統領の支援を受けた社会主義者たちが独立直前にアデンの実権を握り、彼らを中心に11月30日に「アラブ唯一の社会主義国家」として南イエメンは独立します。
この時、すでに存在する「イエメン・アラブ共和国」に合流しようという動きもあったのですが、当のサナアは「王党派」の攻勢で包囲され、「共和国派」が陥落寸前という状況でした。この包囲は70日続いた共和国派最大の危機でしたが、ナセルのエジプトと、独立したばかりの南イエメンからの援軍を得て包囲を破ることができ、これを契機に王党派は衰退していきます。
こうして1969年ころまでには北イエメンの内戦は共和国派優勢で収束し、晴れて南北統一を考えることが出来ようになりました。ところがこの間に独立したばかりの南イエメンでは政治路線対立が続き、社会主義化政策が先鋭化したために、比較的穏健なサナアの政策とはどんどん乖離していきました。そして1970年代には数次の南北イエメン国境紛争・内戦が発生してしまいます。これは東西冷戦と無関係ではありませんが、朝鮮半島とは異なります。南イエメンは東側陣営ですが、北イエメンもソ連からもアメリカからも軍事支援を受けて「援助のオリンピック」状態を保っていたからです。
1983年を境に南北内戦は鎮静化し、北のサレハ大統領と南のアリー・ナーセル大統領との間で友好関係が築かれ、南北統一も議題に上るようになりました。ところが、アリー・ナーセル大統領の対米接近路線に対して南イエメンの支配政党「イエメン社会党」内で反対意見が強まり、1986年にアデンで内紛が起こり、アリー・ナーセルは失脚してしまいます(1月13日事件)。
南イエメン政権は、再度社会主義路線を強化しようとしますが、すでに東ヨーロッパの動揺は進み、1989年にはベルリンの壁が崩壊しました。東側陣営の後ろ盾を期待できなくなったイエメン社会党はこのままでは政権維持が困難と判断し、自らの影響力を守るために南北イエメンに踏み切ることにしたのです。これが、1990年5月22日。東西ドイツの統一よりも半年早い「無血統一」でした。
イエメン人の意向を無視したイギリスとトルコの国境線画定から約90年、悲願の統一を果たして新生「イエメン共和国」の大統領に就任したサレハ大統領は、こうしていったんは全国民のヒーローとなったのです。【佐藤寛 2011/6/20】
そもそも南北イエメンが分離したきっかけは、イギリスが作りました。19世紀前半にスエズ運河からインド洋に抜ける海路の要衝アデン港を保護領としていたイギリスは、自らの中東地域における権益を守るために、20世紀初頭にこの地域に名目的な宗主権を持っていたオスマントルコとアラビア半島分割条約を結びました。その分割線はアフリカの国境線同様きわめていい加減なもので、紅海の入り口バブアルマンデブ海峡からペルシャ湾のバハレーン島までを一直線に結んだのです。
しかし、その頃実際にイエメン北部を支配していたのは、イスラム教ザイド派のイマームであり、トルコではありませんでした。そしてイマームはイギリスに支配されている南部イエメンを含めたイエメン統一を目指していました。ところがこのイマームの頭越しにイギリスとトルコが勝手に南北イエメンを分断したわけです。以来、南北イエメンの統一はイエメン人の悲願となりました。
第一次世界大戦の敗戦でオスマントルコ帝国は凋落し、トルコの宗主権から離れた北イエメンは「イエメン・ムタワッキル王国」として国際社会に認知されました。一方アデンは「世界で2番目に船舶寄港数の多い港」となって大英帝国の拠点として栄えていたため、イギリスはアデンの周辺地域へも支配を拡大していき、南イエメン全域がイギリスの保護領となりました。
こうして第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、アデンはアラブ地域の先進近代都市となり、教育水準も向上して北イエメンとの国境地域(タイズ周辺)からも多くの移民が流入し始めました。アデンで教育を受けた人々の中には、さらにアデンから船に乗って世界に飛び出した人々も多く、イギリスのリバプール、アメリカのデトロイト、カリフォルニアなどにはこの頃から「イエメン人コミュニティー」が出来はじめます。他方、北イエメンでは鎖国政策が敷かれていたため、様々な側面で近代化が進まずアラブで最も遅れた国になってしまいます。こうして「進んだ南、遅れた北」という構図が成立します。
第二次世界大戦後、多くの英領植民地は独立しましたが、アデンの重要性からアイギリスは南イエメンを手放しませんでした。かたや、アラブ世界ではエジプトにナセル大統領が登場し、アラブ民族主義・アラブ式社会主義の理念を多くのアラブの若者に訴えました。これを受けて北イエメンでは1962年にイマームを打倒する軍事革命が発生し、サナアを首都とする「イエメンアラブ・共和国」が誕生します(9月26日革命)。このとき、革命政権はアデンもイギリスの手から奪って統一イエメンを実現しようとしていましたし、アデンにもこれに呼応しようとする勢力がありました。
しかしイギリスはアデン(南イエメン)の分離を許さず、かつイマーム王政が打倒されることに危機感を抱いたサウジアラビア、ヨルダンなどのアラブ王政国家が、逃げ延びたイマームを資金的・軍事的に支援したため、北イエメンでは「王政派対共和国派」の内戦状態になります。このため、革命政府は南イエメンのイギリスからの奪回に力を割くことが出来なくなります。
他方、アデンではブリティッシュ・ペトロリアム(BP)製油所の労働者などが中心となって反英独立闘争が活性化し、1963年には南北イエメン国境に近いアブヤンで最初の武力行動が始まります(10月14日革命)。当初イギリスはこうした動きを武力で押さえつけていましたが、最終的には労働党政権下でスエズ以南の植民地放棄を決断、南イエメンも1967年に独立するスケジュールが決まりました。イギリスは南イエメンの穏健派に政権を委譲しようとしていましたが、ナセル・エジプト大統領の支援を受けた社会主義者たちが独立直前にアデンの実権を握り、彼らを中心に11月30日に「アラブ唯一の社会主義国家」として南イエメンは独立します。
この時、すでに存在する「イエメン・アラブ共和国」に合流しようという動きもあったのですが、当のサナアは「王党派」の攻勢で包囲され、「共和国派」が陥落寸前という状況でした。この包囲は70日続いた共和国派最大の危機でしたが、ナセルのエジプトと、独立したばかりの南イエメンからの援軍を得て包囲を破ることができ、これを契機に王党派は衰退していきます。
こうして1969年ころまでには北イエメンの内戦は共和国派優勢で収束し、晴れて南北統一を考えることが出来ようになりました。ところがこの間に独立したばかりの南イエメンでは政治路線対立が続き、社会主義化政策が先鋭化したために、比較的穏健なサナアの政策とはどんどん乖離していきました。そして1970年代には数次の南北イエメン国境紛争・内戦が発生してしまいます。これは東西冷戦と無関係ではありませんが、朝鮮半島とは異なります。南イエメンは東側陣営ですが、北イエメンもソ連からもアメリカからも軍事支援を受けて「援助のオリンピック」状態を保っていたからです。
1983年を境に南北内戦は鎮静化し、北のサレハ大統領と南のアリー・ナーセル大統領との間で友好関係が築かれ、南北統一も議題に上るようになりました。ところが、アリー・ナーセル大統領の対米接近路線に対して南イエメンの支配政党「イエメン社会党」内で反対意見が強まり、1986年にアデンで内紛が起こり、アリー・ナーセルは失脚してしまいます(1月13日事件)。
南イエメン政権は、再度社会主義路線を強化しようとしますが、すでに東ヨーロッパの動揺は進み、1989年にはベルリンの壁が崩壊しました。東側陣営の後ろ盾を期待できなくなったイエメン社会党はこのままでは政権維持が困難と判断し、自らの影響力を守るために南北イエメンに踏み切ることにしたのです。これが、1990年5月22日。東西ドイツの統一よりも半年早い「無血統一」でした。
イエメン人の意向を無視したイギリスとトルコの国境線画定から約90年、悲願の統一を果たして新生「イエメン共和国」の大統領に就任したサレハ大統領は、こうしていったんは全国民のヒーローとなったのです。【佐藤寛 2011/6/20】
2011年6月18日土曜日
【イエメンはどこに行く・5】《アル・ホーシー派》
アルカーイダよりも、イエメンの内政にとって重大な問題は二つあります。一つが北部の「アル・ホーシー派」の騒乱、もう一つが南部の分離独立派の活動です。まず、アル・ホーシー派について解説しましょう。
イエメンの主要都市は首都のサナア(標高2300m)、南部の港町アデン(旧南イエメン時代の首都)、その中間にあるタイズ(標高1000m)、紅海沿岸の港町ホデイダ、東部ハドラマウトの港町ムカッラなどがあります。そのほかに北部のサウジとの国境近くにサアダという町があり、特に北部部族勢力の拠点として重要です。
そして、サナアから山岳道路を通ってサアダに抜ける途上に「アル・ホウス」という町があります。アラビア語で「アル」は定冠詞、英語のtheに相当します。Howthの形容詞形はHowthy、すなわち「アル・ホーシー」は文字通りには「ホウス地方の」を意味する形容詞です。また、同時にその地方の出身者の名字のような使われ方をすることもあります。今回の一連の出来事は「アル・ホーシー」を名乗る家系の人が主導しているので「アル・ホーシー派」と呼ばれています。
新聞などの報道では「イスラム過激派」とか「イスラム原理主義」とか書かれている例もあるようですが、どちらも正確ではありません。アル・ホーシー派は現在のサレハ政権の北部部族領域に対する政策に不満を持つ人々がイスラムの知識人である「アル・ホーシー」に共鳴してその旗の下に集まっている、というきわめてローカルな性格の集団です。
現在のイエメン共和国は1990年に「イエメンアラブ共和国(北イエメン)」と「イエメン人民民主共和国(南イエメン)」が統一して出来たのですが、旧北イエメンは1962年まではイスラム教ザイド派のイマーム(聖俗両面の指導者)の支配下にありました。このザイド派というのは8世紀以来北部イエメンの支配的な宗派で、イエメンを支配した歴代イマームは基本的にこの宗派の最高権威です。そして、イマームはいくつかの有力家系の中から選ばれるのですが、その中の最有力家系「ハミード・アッ・ディーン」家の根拠地は「アル・ホウス」周辺でした。
「アル・ホーシー」ももちろんこのザイド派の宗教知識人です。そして、ザイド派は、イスラム教のシーア派の一派です。このことから、欧米の単純な人々はすぐに「イランの陰謀」という筋書きを作るのですが、一口に「スンニ」と「シーア」と言ってもいろいろあります。旧北イエメンのサナアから北はほぼすべて「ザイド派」で、それ以外のタイズ周辺、紅海沿岸、内陸砂漠部はスンニ派に属する「シャーフィー派」に属し、人口はほぼ半々でした。旧南イエメンはほぼすべて「シャーフィー派」で、南北統一に伴い、宗派バランスでは「ザイド派」は過半数を割っています。しかし、サレハ大統領はザイド派です。
しかし、イエメンの政治においては宗派(スンニとシーア)はほとんど意味を持って「いません」。サナアにはザイド派(シーア)の人もシャーフィー派(スンニ)の人も混在していますが、同じモスクで礼拝することが出来ます。ザイド派は「シーアの中で最もスンニに近い」といわれているのです。ですからイラクやイランの紛争を頭に置いて、ホーシー派がシーアなのでイランが介入している、などと単純に決めつけるのは危険です。繰り返しますが、サレハ大統領は北部部族の出身ですから、アル・ホーシーと同じザイド派なのです。
もちろん「アル・ホーシー」は現在の国の宗教政策に不満はあるでしょうが、むしろ勢力を拡張したのは宗教的な主張の故ではなく、経済的にも政治的にもあまり優遇されていないと感じている北部部族地域の不満があるからです。これこそが、サレハ政権の危機なのです。サレハ大統領は北部部族地域については部族の代表者を通じて間接統治をしてきました。その代表者の筆頭が「アハマル家」でした。アル・ホーシー派の反乱は、このアハマル家を通じた間接統治が有効でなくなったことを示しています。そして、サウジとの国境地域には、サウジ王家から直接補助金をもらって軍備を整えている様々な部族がおり、こうした人たちが結集すれば国軍に対抗できる軍事力となるのです。
アル・ホーシー派の反乱は2006年頃から本格化し、いくつかの地方都市を実質支配することもありましたし、2008年には首都サナアのすぐ北東の「バニー・ホシェイシ」地区まで進軍したこともあります。その後政府軍が盛り返して2010年はじめにはサアダ周辺で激しい攻防戦があり、サウジ軍もアル・ホーシー派を空爆したこともあるようです。この問題はサウジをはじめGCC諸国の懸念を招き、カタールなどの仲介で何度か休戦協定を結ぶところまで行きましたが、決着はしていません。そうこうするうちに2011年2月からの「民主化デモ」が始まったのです。
現在アル・ホーシー派の動向はあまり報じられませんし、ひと頃に比べて軍事行動は下火にはなっているかもしれません(というより、国軍がそれどころではない状態でかまっていられないのでしょうが)。しかし、基本的にサレハ政権の北部部族地域政策に対する積み重なる不満がある状況は変わっていません。他方、サナアなどで行われている「民主化デモ」と「アル・ホーシー派」とはほとんど接点はないと思います。
大切なことは、 どのような形であれ、「サレハ後」の時代がやってきたとしても、「アル・ホーシー派」問題は、「アルカーイダ」よりもイエメンの内政安定のためにはより重要な課題であるということを忘れないことだと思います。【佐藤寛 2011/6/18】
イエメンの主要都市は首都のサナア(標高2300m)、南部の港町アデン(旧南イエメン時代の首都)、その中間にあるタイズ(標高1000m)、紅海沿岸の港町ホデイダ、東部ハドラマウトの港町ムカッラなどがあります。そのほかに北部のサウジとの国境近くにサアダという町があり、特に北部部族勢力の拠点として重要です。
そして、サナアから山岳道路を通ってサアダに抜ける途上に「アル・ホウス」という町があります。アラビア語で「アル」は定冠詞、英語のtheに相当します。Howthの形容詞形はHowthy、すなわち「アル・ホーシー」は文字通りには「ホウス地方の」を意味する形容詞です。また、同時にその地方の出身者の名字のような使われ方をすることもあります。今回の一連の出来事は「アル・ホーシー」を名乗る家系の人が主導しているので「アル・ホーシー派」と呼ばれています。
新聞などの報道では「イスラム過激派」とか「イスラム原理主義」とか書かれている例もあるようですが、どちらも正確ではありません。アル・ホーシー派は現在のサレハ政権の北部部族領域に対する政策に不満を持つ人々がイスラムの知識人である「アル・ホーシー」に共鳴してその旗の下に集まっている、というきわめてローカルな性格の集団です。
現在のイエメン共和国は1990年に「イエメンアラブ共和国(北イエメン)」と「イエメン人民民主共和国(南イエメン)」が統一して出来たのですが、旧北イエメンは1962年まではイスラム教ザイド派のイマーム(聖俗両面の指導者)の支配下にありました。このザイド派というのは8世紀以来北部イエメンの支配的な宗派で、イエメンを支配した歴代イマームは基本的にこの宗派の最高権威です。そして、イマームはいくつかの有力家系の中から選ばれるのですが、その中の最有力家系「ハミード・アッ・ディーン」家の根拠地は「アル・ホウス」周辺でした。
「アル・ホーシー」ももちろんこのザイド派の宗教知識人です。そして、ザイド派は、イスラム教のシーア派の一派です。このことから、欧米の単純な人々はすぐに「イランの陰謀」という筋書きを作るのですが、一口に「スンニ」と「シーア」と言ってもいろいろあります。旧北イエメンのサナアから北はほぼすべて「ザイド派」で、それ以外のタイズ周辺、紅海沿岸、内陸砂漠部はスンニ派に属する「シャーフィー派」に属し、人口はほぼ半々でした。旧南イエメンはほぼすべて「シャーフィー派」で、南北統一に伴い、宗派バランスでは「ザイド派」は過半数を割っています。しかし、サレハ大統領はザイド派です。
しかし、イエメンの政治においては宗派(スンニとシーア)はほとんど意味を持って「いません」。サナアにはザイド派(シーア)の人もシャーフィー派(スンニ)の人も混在していますが、同じモスクで礼拝することが出来ます。ザイド派は「シーアの中で最もスンニに近い」といわれているのです。ですからイラクやイランの紛争を頭に置いて、ホーシー派がシーアなのでイランが介入している、などと単純に決めつけるのは危険です。繰り返しますが、サレハ大統領は北部部族の出身ですから、アル・ホーシーと同じザイド派なのです。
もちろん「アル・ホーシー」は現在の国の宗教政策に不満はあるでしょうが、むしろ勢力を拡張したのは宗教的な主張の故ではなく、経済的にも政治的にもあまり優遇されていないと感じている北部部族地域の不満があるからです。これこそが、サレハ政権の危機なのです。サレハ大統領は北部部族地域については部族の代表者を通じて間接統治をしてきました。その代表者の筆頭が「アハマル家」でした。アル・ホーシー派の反乱は、このアハマル家を通じた間接統治が有効でなくなったことを示しています。そして、サウジとの国境地域には、サウジ王家から直接補助金をもらって軍備を整えている様々な部族がおり、こうした人たちが結集すれば国軍に対抗できる軍事力となるのです。
アル・ホーシー派の反乱は2006年頃から本格化し、いくつかの地方都市を実質支配することもありましたし、2008年には首都サナアのすぐ北東の「バニー・ホシェイシ」地区まで進軍したこともあります。その後政府軍が盛り返して2010年はじめにはサアダ周辺で激しい攻防戦があり、サウジ軍もアル・ホーシー派を空爆したこともあるようです。この問題はサウジをはじめGCC諸国の懸念を招き、カタールなどの仲介で何度か休戦協定を結ぶところまで行きましたが、決着はしていません。そうこうするうちに2011年2月からの「民主化デモ」が始まったのです。
現在アル・ホーシー派の動向はあまり報じられませんし、ひと頃に比べて軍事行動は下火にはなっているかもしれません(というより、国軍がそれどころではない状態でかまっていられないのでしょうが)。しかし、基本的にサレハ政権の北部部族地域政策に対する積み重なる不満がある状況は変わっていません。他方、サナアなどで行われている「民主化デモ」と「アル・ホーシー派」とはほとんど接点はないと思います。
大切なことは、 どのような形であれ、「サレハ後」の時代がやってきたとしても、「アル・ホーシー派」問題は、「アルカーイダ」よりもイエメンの内政安定のためにはより重要な課題であるということを忘れないことだと思います。【佐藤寛 2011/6/18】
2011年6月15日水曜日
【イエメンはどこに行く・4】《アルカーイダ》
アメリカやイギリスにとって、イエメン問題はイエメン国民のために問題なのではありません。自国の安全保障のための問題なのです。それは、「アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)」と呼ばれる集団がイエメン南部に潜伏していて、そこから米英に対するテロ攻撃を仕掛けている、という認識があることに基礎をおいています。
2009年のクリスマスにアメリカで飛行機に自爆爆弾を持ち込もうとしたナイジェリア人が逮捕される事件がありましたが、その人物はイエメンのAQAPの基地で指導を受けたとされ、多くの英米の国民の間では「9.11」の恐怖がよみがえり、それ以来AQAPは欧米の諜報機関の危険リストの上位に躍り出たのです。
さらに2010年10月末にカタール経由でイギリスに届いたイエメンからの航空貨物の中に爆発物が発見されるという事件がありました。これもAQAPの犯行であるとされたため、「手遅れにならないうちにイエメン国内のアルカーイダのアジトを空爆すべき」との世論が高まっていました。
また、今回のイエメンでの政治的混乱で「アルカーイダがイエメンの政権を乗っ取るのではないか」という荒唐無稽な危機感をあおる人もいます。もちろん、テロへの恐怖感は理解できますが、今回のイエメン政治的混乱とAQAPとの関係は限定であることをまず理解する必要があります。また、欧米にとっての重大問題と、イエメン自身にとっての重大問題を混同することは、イエメン問題の適切な解決にとってはむしろ障害となるでしょう。イエメンにおけるアルカーイダ問題の特質を三点を指摘しておきます。
第一にイエメンの現在の政治的混乱とその解決にとってAQAPはマイナーな問題です。二月にデモが始まるまでのサレハ政権の最大の問題は「北部のアルホーシー派の反乱」と「南部の分離独立派の反乱」の二つでした(これらについては後ほどご説明します)。
これらはいずれもサレハ政権の国内掌握力の衰退を示す出来事で、この結果としてイエメン中南部の部族領域(アブヤン、シャブワなど)にAQAPが「秘密訓練施設」を確保できる状況が生まれたのです。しかし、いわゆるAQAPのメンバーはせいぜい数十人というのが大方の専門家の意見で、特定の地域を「占拠」しているのではなく、部族長の許可のもとに「居候」している状況でした。
第二に、サレハ政権にとってAQAPは脅威ではありませんでした。イラク、アフガニスタンから追い出されてイエメンに流れ着いたアルカーイダにとっては政府の掌握力の弱いイエメンは理想的な「安全地帯」で、弱体化するサレハ政権に続いてほしいと考えています。このためAQAPは基本的にはサレハ政権に対する攻撃は一切しておらず、あくまでも欧米への攻撃のための「訓練地」として機能していたので、イエメンの国内政治にはほとんど影響がなかったのです。
第三に、AQAPを問題視しているのは欧米であり、これを利用してサレハ大統領はAQAPの存在を理由にアメリカからの軍事援助を最大限引き出すことに尽力してきました。この軍事援助を利用して、アルホーシー派、南部分離派の掃討作戦を行うためです。
こうした状況下で、6月3日(金)の大統領府砲撃(空爆ではないと思いますが)によってサレハ大統領が重傷を負い、サウジに搬送されて手術を受けるという事態になりました。これによって、イエメンには「権力の空白」と呼ばれる状況が発生しています。欧米メディアはこれがこの権力の空白を利用して暴力的な勢力が伸張するのではないか、「内戦状態」に陥るのではないか、という懸念を表明しています。
これと同時にアメリカはイエメン領内での無人機による空爆を本格化しているのです。もちろん名目はAQAPの掃討です。しかしいかに弱体化しているとはいえ、イエメンは主権国家です。その国に外国の軍用機が、その国の政権の意向とは無関係に自由に作戦を展開しているのです。これはオサマ・ビンラーデン殺害作戦を、パキスタン政府の許可なしにパキスタン国内で実施したことと同様の構図です。すなわち、権力の空白を最大限利用しているのは米国ともいえます。
こうした軍事行動は、今後のイエメンの政治的安定、アメリカをはじめとする欧米諸国との関係に大きな禍根を残す可能性があります。もし、現在の政治的混乱の収束のために外国が介入するのであれば、必要なのは軍事介入ではありません。まずサレハ大統領の政権委譲プロセスを円滑化するための支援をし、次の政権の安定化を図りつつその政権と協力してAQAP対策を講じるべきでしょう。もちろん、そんな悠長なことを言っていられないという人もいるでしょうが、それはあくまでも外国人のエゴです。
イエメンが不安定なままでは、どれほど無人攻撃機でAQAPのアジト攻撃に成功しても、次から次へと反欧米メンタリティーを持つ人々を増やすだけで、むしろ潜在的な脅威が増すばかりであるということを、きちんと把握するべきではないでしょうか。
【佐藤寛 2011/6/15】
2009年のクリスマスにアメリカで飛行機に自爆爆弾を持ち込もうとしたナイジェリア人が逮捕される事件がありましたが、その人物はイエメンのAQAPの基地で指導を受けたとされ、多くの英米の国民の間では「9.11」の恐怖がよみがえり、それ以来AQAPは欧米の諜報機関の危険リストの上位に躍り出たのです。
さらに2010年10月末にカタール経由でイギリスに届いたイエメンからの航空貨物の中に爆発物が発見されるという事件がありました。これもAQAPの犯行であるとされたため、「手遅れにならないうちにイエメン国内のアルカーイダのアジトを空爆すべき」との世論が高まっていました。
また、今回のイエメンでの政治的混乱で「アルカーイダがイエメンの政権を乗っ取るのではないか」という荒唐無稽な危機感をあおる人もいます。もちろん、テロへの恐怖感は理解できますが、今回のイエメン政治的混乱とAQAPとの関係は限定であることをまず理解する必要があります。また、欧米にとっての重大問題と、イエメン自身にとっての重大問題を混同することは、イエメン問題の適切な解決にとってはむしろ障害となるでしょう。イエメンにおけるアルカーイダ問題の特質を三点を指摘しておきます。
第一にイエメンの現在の政治的混乱とその解決にとってAQAPはマイナーな問題です。二月にデモが始まるまでのサレハ政権の最大の問題は「北部のアルホーシー派の反乱」と「南部の分離独立派の反乱」の二つでした(これらについては後ほどご説明します)。
これらはいずれもサレハ政権の国内掌握力の衰退を示す出来事で、この結果としてイエメン中南部の部族領域(アブヤン、シャブワなど)にAQAPが「秘密訓練施設」を確保できる状況が生まれたのです。しかし、いわゆるAQAPのメンバーはせいぜい数十人というのが大方の専門家の意見で、特定の地域を「占拠」しているのではなく、部族長の許可のもとに「居候」している状況でした。
第二に、サレハ政権にとってAQAPは脅威ではありませんでした。イラク、アフガニスタンから追い出されてイエメンに流れ着いたアルカーイダにとっては政府の掌握力の弱いイエメンは理想的な「安全地帯」で、弱体化するサレハ政権に続いてほしいと考えています。このためAQAPは基本的にはサレハ政権に対する攻撃は一切しておらず、あくまでも欧米への攻撃のための「訓練地」として機能していたので、イエメンの国内政治にはほとんど影響がなかったのです。
第三に、AQAPを問題視しているのは欧米であり、これを利用してサレハ大統領はAQAPの存在を理由にアメリカからの軍事援助を最大限引き出すことに尽力してきました。この軍事援助を利用して、アルホーシー派、南部分離派の掃討作戦を行うためです。
こうした状況下で、6月3日(金)の大統領府砲撃(空爆ではないと思いますが)によってサレハ大統領が重傷を負い、サウジに搬送されて手術を受けるという事態になりました。これによって、イエメンには「権力の空白」と呼ばれる状況が発生しています。欧米メディアはこれがこの権力の空白を利用して暴力的な勢力が伸張するのではないか、「内戦状態」に陥るのではないか、という懸念を表明しています。
これと同時にアメリカはイエメン領内での無人機による空爆を本格化しているのです。もちろん名目はAQAPの掃討です。しかしいかに弱体化しているとはいえ、イエメンは主権国家です。その国に外国の軍用機が、その国の政権の意向とは無関係に自由に作戦を展開しているのです。これはオサマ・ビンラーデン殺害作戦を、パキスタン政府の許可なしにパキスタン国内で実施したことと同様の構図です。すなわち、権力の空白を最大限利用しているのは米国ともいえます。
こうした軍事行動は、今後のイエメンの政治的安定、アメリカをはじめとする欧米諸国との関係に大きな禍根を残す可能性があります。もし、現在の政治的混乱の収束のために外国が介入するのであれば、必要なのは軍事介入ではありません。まずサレハ大統領の政権委譲プロセスを円滑化するための支援をし、次の政権の安定化を図りつつその政権と協力してAQAP対策を講じるべきでしょう。もちろん、そんな悠長なことを言っていられないという人もいるでしょうが、それはあくまでも外国人のエゴです。
イエメンが不安定なままでは、どれほど無人攻撃機でAQAPのアジト攻撃に成功しても、次から次へと反欧米メンタリティーを持つ人々を増やすだけで、むしろ潜在的な脅威が増すばかりであるということを、きちんと把握するべきではないでしょうか。
【佐藤寛 2011/6/15】
2011年6月14日火曜日
【イエメンはどこに行く・3】《次は誰か》
そして、「次は誰か」です。これには全くめどがありません。まず第一に、誰もサレハ大統領がこれまでやってきたことを真似できません。皆それがわかっているので、誰もこの仕事をやりたくないのです。これが、サレハ政権が33年間続いてきた最大の理由です。
軍を骨抜きにしておくこと、北部部族と一定の関係を維持すること、中部イエメンのテクノクラートを掌握すること、旧南イエメンの不満分子を間接的に抑えること、東部ハドラマウトの人々をつなぎ止めておくこと、そして流れ込んできたアルカーイダ系の人々が国内で悪さをしないようになだめておくこと。さらにサウジとはけんかしない程度に関係を維持し、必要なときにはお金をもらうこと。
これらをサレハはそれぞれの仲介的な役割を担う人を使いながらやってきたのです。サレハ自身の言葉によれば、イエメンを統治することは「蛇の頭の上でダンスを踊ることに等しい」のです。(Victoria Clark "Yemen: Dancing on the heads of snakes" Yale Univ.Press, 2010)。ですから、仮にサレハが退陣しても誰も蛇の頭の上でダンスを踊る役割はしたいと思っていないのです。
サレハは、シリアのハフェズ・アサド前大統領が息子に大統領職を禅譲することに成功したことを見て、またムバラクも息子に大統領職を息子に譲ろうとしているのを見て、自分も息子アハマドに継がせようと思っていたかもしれません。しかし、仮にそれが出来たとしても、アハマドが成功する確率は限りなく低かったでしょう。アハマドは父親が持っている「ネットワーク」を持っていないからです。今回の一連の経緯でこの可能性が排除されることは、イエメンにとっては幸いです。絶対失敗するシナリオを取らずに済むからです。
ハーディー副大統領が、暫定政権を組織したとしても、同じことです。彼は旧南イエメンの代表であることから、北部部族との交渉はまず出来ません。サウジとの交渉も出来ません。1981年にサダト大統領が暗殺されたときに、ムバラク副大統領が大統領になりました。このときは、ムバラクは無名で指導力が不安視されましたが、軍を掌握していたことでそれ以後30年間の政権を維持できたのです。
ところが、イエメンでは軍を掌握している人はいません。今回の争乱の中で3月に腹心と言われていた第一師団司令官(アリ・モフセン・アルアハマル)がデモ支持を表明しましたが。まだ軍は一応大統領の指揮下にあります。各部隊の司令官だけはサレハと個人的につながっているからです。
もしも、政府が組織的に動いているなら、トップが変わっても組織は継続的に活動できますが、そうでない場合(イエメンの軍がそうですが)は、トップが変わったら大混乱になるだけです。
北部部族については、5月後半からサレハ自身の出身部族であるハーシェド部族連合の連合部族長サーディク・アルアハマルが公然と反旗を翻し、あっという間に一部の政府機関を占拠しました。この程度の軍事力を北部部族が保持していることは明らかだったので驚くことはないのですが、アハマルは、サレハのやり方に怒っているのであって、自分が大統領をやろうなどとは露ほども思っていないでしょう。
そもそも、そんなことを言い出したら、これまで三ヶ月以上民主化要求デモを続けてきた学生たちが黙っていないでしょう。野党連合は今回の一連の動きの中でサレハに圧力をかけてきましたが、それを率いる指導者はいません。所詮烏合の衆です。
また、今回の大統領府攻撃を誰がやったのかも謎ですが、サレハが負傷してサウジに出国したことを反サレハ派の人々は皆喜んでいますが、これでサレハが暗殺されたとしたらこれまでの民主化運動の意味はほとんど失われてしまいます。
現時点では、サレハ後のこの国の舵取りをどうするのか。全くめどが立ちません。もちろん、憲法の規定に則りハーディー副大統領が暫定政府を組織することが最も穏当です。それで一年程度はしのげますが、その間に次の「国の姿」を模索しなければならないことになるでしょう。
【2011/6/14】
軍を骨抜きにしておくこと、北部部族と一定の関係を維持すること、中部イエメンのテクノクラートを掌握すること、旧南イエメンの不満分子を間接的に抑えること、東部ハドラマウトの人々をつなぎ止めておくこと、そして流れ込んできたアルカーイダ系の人々が国内で悪さをしないようになだめておくこと。さらにサウジとはけんかしない程度に関係を維持し、必要なときにはお金をもらうこと。
これらをサレハはそれぞれの仲介的な役割を担う人を使いながらやってきたのです。サレハ自身の言葉によれば、イエメンを統治することは「蛇の頭の上でダンスを踊ることに等しい」のです。(Victoria Clark "Yemen: Dancing on the heads of snakes" Yale Univ.Press, 2010)。ですから、仮にサレハが退陣しても誰も蛇の頭の上でダンスを踊る役割はしたいと思っていないのです。
サレハは、シリアのハフェズ・アサド前大統領が息子に大統領職を禅譲することに成功したことを見て、またムバラクも息子に大統領職を息子に譲ろうとしているのを見て、自分も息子アハマドに継がせようと思っていたかもしれません。しかし、仮にそれが出来たとしても、アハマドが成功する確率は限りなく低かったでしょう。アハマドは父親が持っている「ネットワーク」を持っていないからです。今回の一連の経緯でこの可能性が排除されることは、イエメンにとっては幸いです。絶対失敗するシナリオを取らずに済むからです。
ハーディー副大統領が、暫定政権を組織したとしても、同じことです。彼は旧南イエメンの代表であることから、北部部族との交渉はまず出来ません。サウジとの交渉も出来ません。1981年にサダト大統領が暗殺されたときに、ムバラク副大統領が大統領になりました。このときは、ムバラクは無名で指導力が不安視されましたが、軍を掌握していたことでそれ以後30年間の政権を維持できたのです。
ところが、イエメンでは軍を掌握している人はいません。今回の争乱の中で3月に腹心と言われていた第一師団司令官(アリ・モフセン・アルアハマル)がデモ支持を表明しましたが。まだ軍は一応大統領の指揮下にあります。各部隊の司令官だけはサレハと個人的につながっているからです。
もしも、政府が組織的に動いているなら、トップが変わっても組織は継続的に活動できますが、そうでない場合(イエメンの軍がそうですが)は、トップが変わったら大混乱になるだけです。
北部部族については、5月後半からサレハ自身の出身部族であるハーシェド部族連合の連合部族長サーディク・アルアハマルが公然と反旗を翻し、あっという間に一部の政府機関を占拠しました。この程度の軍事力を北部部族が保持していることは明らかだったので驚くことはないのですが、アハマルは、サレハのやり方に怒っているのであって、自分が大統領をやろうなどとは露ほども思っていないでしょう。
そもそも、そんなことを言い出したら、これまで三ヶ月以上民主化要求デモを続けてきた学生たちが黙っていないでしょう。野党連合は今回の一連の動きの中でサレハに圧力をかけてきましたが、それを率いる指導者はいません。所詮烏合の衆です。
また、今回の大統領府攻撃を誰がやったのかも謎ですが、サレハが負傷してサウジに出国したことを反サレハ派の人々は皆喜んでいますが、これでサレハが暗殺されたとしたらこれまでの民主化運動の意味はほとんど失われてしまいます。
現時点では、サレハ後のこの国の舵取りをどうするのか。全くめどが立ちません。もちろん、憲法の規定に則りハーディー副大統領が暫定政府を組織することが最も穏当です。それで一年程度はしのげますが、その間に次の「国の姿」を模索しなければならないことになるでしょう。
【2011/6/14】
【イエメンはどこへ行く・2】《大きな流れ》
まず、今回のイエメンでの一連の出来事を、単にアラブの春の連鎖反応だと考えるのは正しくありません。イエメンにはイエメンに固有な政治の流れがあるからです。
私はすでに5年くらい前から「サレハ政権の行き詰まり」を指摘してきました。サレハ政権は、様々な利害を持つ諸勢力をとにかくまとめて、国としてのまとまりを維持することにはきわめて長けています。1990年にベルリンの壁が崩壊した時に、無血で南北イエメンの統一を達成したのはその一つの成果です。もちろん、いろいろな人に妥協を積み重ねさせることの無理が1994年の南北内戦につながったのですが、それも武力で制圧し、旧南イエメンの保守的勢力であるハーディー氏を副大統領に据えて、統一国家を維持してきました。
しかし、サレハ政権の最大の弱点は、「政策を打ち出せない」ことです。特に経済政策、開発政策には全く方向性を打ち出せないままにこれまで33年間を費やしてきました。1978年にガシュミ前大統領が爆死して政権を継いで以来、旧南イエメンとの紛争で1980年代前半は推移し、後半は石油が発見されたのでこの金の使い道だけ考えればよく、1990年のイラク危機の時には湾岸諸国に見放されても欧米からの援助でしのぎ、1994年の内戦を乗り越えるまでは、それでも良かったのです。
しかし、1994年以降は「開発政策」が必要だったのです。それが打ち出せなかったのは、「妥協の名人」サレハ政権の宿命です。長期的な視点に立って物事のプライオリティー付けをし、政策目標を掲げて様々なステイクホルダーの利害を一致させる、ということはサレハ政権には望めません。
それでも、石油収入がありアメリカが軍事援助を続けている限りは延命できたし、2000年代前半まではそれなりの建設ブームもあったので、人々は我慢してきました。しかし、この五年ほどはサナアの表面的な活況をよそに、地方部の衰退は進み、特に旧南イエメンはアデンも含めてほとんど「無視」されてきたのです。これでは国は進みません。
サレハ大統領自身も、自分の限界は知っていると思います。サナアに壮大な「アリー・アブダッラー・サレハ」モスクを建立したのを機に本当は引退すべきだったのです。国民もそれなら「名誉ある引退」を拍手で迎えたでしょう。しかし、それは出来なかった。なぜなら後継者がいないからです。これが「手詰まり」。
サレハ自身も、国民もどうやってこの手詰まりから抜け出せるのか、見通しがなかったのです。私自身も見通しが見えませんでした。ところが、「アラブの春」です。これなら、暗殺されずに引退できるのです。サレハ大統領はこのシナリオに、基本的に乗るつもりがあるはずです。それが唯一の「出口」だということを、彼自身もわかっているから。つまり、現在起こっていることは、手詰まり状態にあったイエメンにとっては「最も望ましいシナリオ」なのです。これが大きな流れです。
問題は、「退陣の仕方」と「次は誰か」です。退陣の仕方として、6月3日にあったような「大統領府攻撃」などによる「暗殺」は最悪です。なぜなら、サレハ政権に依存している利害関係者がそれを理由に次の政権に対する徹底抗戦をする理由になってしまうからです。あくまでもサレハ自身の意志による「退陣」でなければなりません。その意味で、サレハがサウジで治療を受けた後、いったん帰国したいと考えているのは理にかなっているのです。
繰り返しますが、イエメン史の大きな流れの中で今回の争乱は、これまでのシナリオにはなかったウルトラC的な方法であれ、暗殺でない政権交代に向かっているという意味でイエメンにとっては最も望ましいシナリオで進行しており、従って外部者が過度に騒ぎ立てる必要はないということを指摘しておきたいと思います。【2011/6/13】
私はすでに5年くらい前から「サレハ政権の行き詰まり」を指摘してきました。サレハ政権は、様々な利害を持つ諸勢力をとにかくまとめて、国としてのまとまりを維持することにはきわめて長けています。1990年にベルリンの壁が崩壊した時に、無血で南北イエメンの統一を達成したのはその一つの成果です。もちろん、いろいろな人に妥協を積み重ねさせることの無理が1994年の南北内戦につながったのですが、それも武力で制圧し、旧南イエメンの保守的勢力であるハーディー氏を副大統領に据えて、統一国家を維持してきました。
しかし、サレハ政権の最大の弱点は、「政策を打ち出せない」ことです。特に経済政策、開発政策には全く方向性を打ち出せないままにこれまで33年間を費やしてきました。1978年にガシュミ前大統領が爆死して政権を継いで以来、旧南イエメンとの紛争で1980年代前半は推移し、後半は石油が発見されたのでこの金の使い道だけ考えればよく、1990年のイラク危機の時には湾岸諸国に見放されても欧米からの援助でしのぎ、1994年の内戦を乗り越えるまでは、それでも良かったのです。
しかし、1994年以降は「開発政策」が必要だったのです。それが打ち出せなかったのは、「妥協の名人」サレハ政権の宿命です。長期的な視点に立って物事のプライオリティー付けをし、政策目標を掲げて様々なステイクホルダーの利害を一致させる、ということはサレハ政権には望めません。
それでも、石油収入がありアメリカが軍事援助を続けている限りは延命できたし、2000年代前半まではそれなりの建設ブームもあったので、人々は我慢してきました。しかし、この五年ほどはサナアの表面的な活況をよそに、地方部の衰退は進み、特に旧南イエメンはアデンも含めてほとんど「無視」されてきたのです。これでは国は進みません。
サレハ大統領自身も、自分の限界は知っていると思います。サナアに壮大な「アリー・アブダッラー・サレハ」モスクを建立したのを機に本当は引退すべきだったのです。国民もそれなら「名誉ある引退」を拍手で迎えたでしょう。しかし、それは出来なかった。なぜなら後継者がいないからです。これが「手詰まり」。
サレハ自身も、国民もどうやってこの手詰まりから抜け出せるのか、見通しがなかったのです。私自身も見通しが見えませんでした。ところが、「アラブの春」です。これなら、暗殺されずに引退できるのです。サレハ大統領はこのシナリオに、基本的に乗るつもりがあるはずです。それが唯一の「出口」だということを、彼自身もわかっているから。つまり、現在起こっていることは、手詰まり状態にあったイエメンにとっては「最も望ましいシナリオ」なのです。これが大きな流れです。
問題は、「退陣の仕方」と「次は誰か」です。退陣の仕方として、6月3日にあったような「大統領府攻撃」などによる「暗殺」は最悪です。なぜなら、サレハ政権に依存している利害関係者がそれを理由に次の政権に対する徹底抗戦をする理由になってしまうからです。あくまでもサレハ自身の意志による「退陣」でなければなりません。その意味で、サレハがサウジで治療を受けた後、いったん帰国したいと考えているのは理にかなっているのです。
繰り返しますが、イエメン史の大きな流れの中で今回の争乱は、これまでのシナリオにはなかったウルトラC的な方法であれ、暗殺でない政権交代に向かっているという意味でイエメンにとっては最も望ましいシナリオで進行しており、従って外部者が過度に騒ぎ立てる必要はないということを指摘しておきたいと思います。【2011/6/13】
【イエメンはどこに行く・1】《アラブの春》
【イエメンはどこに行く・1】《アラブの春》
2011年1月に、チュニジアのベン・アリ大統領が民衆の抗議デモを受ける形で国外脱出し、23年間の独裁政権が崩壊したことは、これまでの中東・アラブの政治常識を覆したという意味でまさに「革命」というにふさわしい出来事でした。一部の人々はこれを「ジャスミン革命」と呼んでいるようですが、その後これがエジプトにも波及して2月にムバラク大統領が30年にわたる政権を手放さざるを得なくなりました。これまた、大方の中東専門家が予想さえしなかったという意味で革命的な出来事です。
こうした展開を見た他のアラブ諸国の人々は一種の興奮状態に陥り、各国に民主化要求の市民デモが飛び火します。この一連の動きを「アラブの春」と呼ぶ人もいます。おそらく1968年のチェコで起こり、ソ連軍の軍事介入で鎮圧された改革運動を「プラハの春」を念頭に置いたネーミングでしょう。
しかし、「アラブの春」の展開はそれぞれの国ごとに大きく異なっており、単純にチュニジア→エジプト→次の国というようなドミノが自動的に起こるわけではありません。リビアの状況はカダフィ氏が強固に抵抗することで泥沼化し欧米諸国が軍事介入するというとんでもない事態に発展していますし、シリアもアサド・ジュニアが弾圧志向を強めて「政府対人民」という悲惨な状態になりつつあります。バハレーンの争乱は、パトロンであるサウジが軍事介入して押さえ込んでしまいました。
では、イエメンはどうなるのでしょう。事態は流動的ですが、イエメン専門家と名乗るからなは知らんぷりもしていられませんので、これからしばらくこの問題についての、私の考えを述べてみたいと思います。【佐藤寛・2011/6/13】
2011年1月に、チュニジアのベン・アリ大統領が民衆の抗議デモを受ける形で国外脱出し、23年間の独裁政権が崩壊したことは、これまでの中東・アラブの政治常識を覆したという意味でまさに「革命」というにふさわしい出来事でした。一部の人々はこれを「ジャスミン革命」と呼んでいるようですが、その後これがエジプトにも波及して2月にムバラク大統領が30年にわたる政権を手放さざるを得なくなりました。これまた、大方の中東専門家が予想さえしなかったという意味で革命的な出来事です。
こうした展開を見た他のアラブ諸国の人々は一種の興奮状態に陥り、各国に民主化要求の市民デモが飛び火します。この一連の動きを「アラブの春」と呼ぶ人もいます。おそらく1968年のチェコで起こり、ソ連軍の軍事介入で鎮圧された改革運動を「プラハの春」を念頭に置いたネーミングでしょう。
しかし、「アラブの春」の展開はそれぞれの国ごとに大きく異なっており、単純にチュニジア→エジプト→次の国というようなドミノが自動的に起こるわけではありません。リビアの状況はカダフィ氏が強固に抵抗することで泥沼化し欧米諸国が軍事介入するというとんでもない事態に発展していますし、シリアもアサド・ジュニアが弾圧志向を強めて「政府対人民」という悲惨な状態になりつつあります。バハレーンの争乱は、パトロンであるサウジが軍事介入して押さえ込んでしまいました。
では、イエメンはどうなるのでしょう。事態は流動的ですが、イエメン専門家と名乗るからなは知らんぷりもしていられませんので、これからしばらくこの問題についての、私の考えを述べてみたいと思います。【佐藤寛・2011/6/13】
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