サレハ大統領の権力基盤は、国軍と北部部族勢力からの支持でした。イエメン人はすべてノアの曾孫にあたるカハターンの子孫で、この血筋は「正統アラブ」であることをイエメン人は誇りに思っています。そしてイエメンの「部族」は基本的にこのカハターンから枝分かれした誰かを祖先に持つ父系集団です。ですから、イエメン人は人種的(エスニック)にも、言語的にもそしてイスラムという宗教的にも共通の基盤を持っています。
アラブの血統学の立場からは、旧北イエメン地域に住むイエメン人はハーシェド部族連合、バキール部族連合、マドハジ部族連合の三つのどれかに属していることになっています。このどれにも属さない人は、混血アラブであり社会的には少し低く見られるのです。ハーシェド、バキールはサナアからサアダ(サウジとの国境近くの町)にかけての山岳地に住んでいてイスラム教ザイド派です。マドハジは紅海沿岸のティハマ地方と内陸の砂漠地帯に住んでいて、イスラム教シャーフィー派です。系図上ハーシェドとバキールは兄弟ですが、彼らの子孫たちは宿敵関係にあります。
1962年の革命まで北イエメンを支配していたイマームは、血統的には預言者ムハンマドの血を引く宗教知識人家系であり、イエメンの部族には属していません。こうした宗教的な権威が国を支配するためには軍事力を持つ部族の支持が不可欠です。ハーシェドとバキールは「イマームの両翼」と呼ばれて、イマーム王国を支えていたのです。1962年の革命直後は、両部族連合ともイマーム側について共和国派の軍隊と戦っていたのですが、時間が経つにつれてそれぞれの部族連合から共和国側につく部族が出てきて、1967年のサナア包囲の失敗後にイマーム派は崩壊しました。
部族連合というのは、その下にさらに枝分かれした部族(カビーラ)がいくつもあるからです。一般の部族民にとって一番大切なのは、この部族(カビーラ)のアイデンティティーで、自分の名前の最後に部族名をつける人が多いのもこの現れです。部族(カビーラ)の人口規模は様々ですが、基本的に北イエメンの行政単位である郡(州の下部単位)は、おおむね部族領域に重なっています。
いくつかの部族はその下にさらに枝分かれした肢族があり、これらを含めると北イエメンには約600の部族があると言われています。またイエメンには『部族辞典』が存在していて、それぞれの部族の創始者は誰で、どのような歴史をたどってきて、現在どの地域に住んでいるかが書かれています。
所属する部族の数、人口はバキール部族の方が大きいのですが、共和国成立以降はハーシェド部族連合が政治的に優勢でした。その最大の要因は部族連合長であったシェイク(部族長の尊称です)・アブダッラー・アル・アハマルの政治力にありました。シェイク・アハマルは共和国派の部族をとりまとめて1970年代初めにすでに部族連合長の地位を固め、サナアの共和国政府に大きな発言力を持っていました。
1974年6月13日にに軍事クーデターで第三代大統領に就任したハムディ大統領は、知識人でもありアラブ社会主義的な思想を背景に中央集権的な近代国家作りのビジョンを持っていました。このため、特にサナア以南の人々に人気が高かったのですが、部族勢力の政治的発言権を制限しようとしたために、シェイク・アハマルは機嫌を損ねてしまいましす。シェイク・アハマルは北部のアルホウス近辺の自らの部族領域にたてこもり、正規軍との間に一時戦闘状態になってしまいます。こうして政府と北部部族の関係が緊張する中、1977年にサナアの軍指令本部の中でハムディ大統領は爆殺されてしまいます。
この爆殺の背景には部族勢力がいるのではないかと言われていますが、真相は闇の中です。ハムディを継いだ第四代大統領ガシュミはサナアの北方部族出身の軍人ですが、翌1978年に南イエメン特使の鞄に仕込まれた爆弾によって暗殺されます。これを契機に南北イエメンは再度内戦になるのですが、ガシュミの後第五代大統領に就任したのがサレハでした。当時サレハの政治基盤は脆弱で、シェイク・アハマルら北部部族の支持が唯一の頼りでした。サレハ自身はサナアの南のサナハーン部族の出身ですが、サナハーン部族はハーシェド部族連合に属しており、シェイク・アハマルは「若造」サレハ大統領(就任時はまだ30代です)にとっては、自分の属する部族連合長でもあり、百戦錬磨のベテランなので北部地域の問題は基本的に彼に依存することになります。
こうしてサレハ大統領とシェイク・アハマルとの二人三脚が始まり、1990年以降の統一イエメンではシェイク・アハマルは「イスラーハ」党党首であり、また国会議長の要職にも就いていました。この間、バキール部族連合の側からの「自分たちの部族領域に開発プロジェクトが少ない」などの不満はありつつも、ハーシェド部族連合有利の政治状況は続いていました。また、1994年の南北内戦では、両部族連合はアデン陥落のために国軍とともに戦いました。
第五回でお話しした「アルホーシー」の動きは、北部部族地域で拡大しているのですがこれには、ハーシェド、バキール双方の部族がいくつか合流しています。これは、サレハ政権に不満を持ち、同時にシェイク・アハマルにも不満を持つ勢力が存在することを示しています。このため、アルホーシー派の掃討作戦には、国軍のみならずアルホーシーに賛同しない北部部族勢力も加わっていたのです。
しかし、サレハ大統領とシェイク・アハマルの連携による北部地域の統治方法はシェイク・アハマルの死亡によって終わりを迎えます。 今回の一連の民主化騒動の中で、まず軍の中でサレハを支えていた「アリ・ムフセン・アルアハマル」司令官が、デモ隊支持を宣言したことは、ハーシェド部族連合からの一つのメッセージでした。同司令官は故シェイク・アハマルの家系です。そして、シェイク・アハマルを継いでハーシェド部族連合長になったサーディク・アハマルは、5月末にサレハ政権に対する支持を撤回し、首都サナアの真ん中で国軍と戦闘状態に入りました。
このことの持つ意味は重大です。仮にサレハ大統領がサウジから復帰してきても、これまでの北部部族からの支持はもはや期待できないからです。 ただし、だからといって北部部族や、サーディク・アハマルがこの国を率いていくのかというと、まずそれはあり得ません。なぜなら、北部部族の影響力が及ぶのは北部部族領域だけであり、現在の約2000万人の人口のうち、せいぜい300万人程度なのです。また、2月以来サナアで平和的な民主化運動を繰り広げてきた若者たちにとって、「部族」は前近代的な社会制度であり、「民主主義」とは相容れないと考えている人が多いからです。【佐藤寛 2011/6/24】
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