2011年6月22日水曜日

【イエメンはどこに行く・7】《南部分離派》

1990年の南北無血統一は偉業でした。しかし、同時に偉大な妥協の産物でもありました。サレハ大統領はこうした妥協工作には非凡な能力を示します。

統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度で、人口比では圧倒的に北が優勢でした。このため、大統領には北のサレハが就任し、副大統領と首相は南から出すことになります。また、これまで内戦を繰り返していたために、旧南北それぞれの秘密警察は「反体制派」に関するファイルを蓄積してきたのですが、もう国境紛争の心配がなくなったので、これらのはファイルは破棄されました。これは南北両政府間の信頼醸成のためには不可欠な措置でした。

妥協はたくさんあります。 国旗は旧南北イエメンの共通部分を取って上から赤白黒の三色旗になりました。首都は北のサナアで、アデンは「経済首都」と名付けられました。国歌は南のものが採用され、通貨もしばらくの間は両国のものが固定レートで相互に流通しました。統合によってなるべく失職する人が出ないように、閣僚の数は40人ほどに膨れあがり、大臣が北なら副大臣は南という具合にバランスに気を遣った人事を行いました。そして何よりも重大なことは、軍は統合されず南北それぞれの軍隊がそのまま残り、北の軍隊が南に、南の軍隊が北に配置されたことでした。

統合を機に複数政党制が導入され国会議員選挙も行われるようになりました。サレハ大統領の翼賛政党である「統合人民会議」には政府の主立った人たちが入っていますが、これ以外に北部部族勢力と一部のイスラム勢力が結びついた「イスラーハ」党が結成され、旧北部部族地域を中心に支持を獲得しました。他方旧南イエメンの支配政党だった「イエメン社会党」も生き残り、南部を中心に支持を得ていました。そしてこの両政党が全く正反対な主張を展開しはじめます。イスラーハは保守的でイスラム法(シャリーア)に則った憲法を主張したのに対して、イエメン社会党は社会主義的な色合いの強い憲法を求めます。

また、人口比で劣る南の人材に政治的なポストが与えられすぎると不満を漏らす北の人がいる一方で、首都がサナアになったためにアデンから単身赴任しなければならなくなった人たちもサナアは住みにくいと文句を言います。統合の熱気が冷めるにつれて、こうした不満、不信感が募っていきました。しかしサレハ大統領はこれまで通り明確に政治的イニシアチブは取らないままです。サレハ大統領は政敵を取り込み、対立する人々を妥協させることにはたけていますが、明確なビジョンを示して国を引っ張っていくことは不得意なのです。

1993年後半になるとイスラーハ党関係者によるイエメン社会党関係者の襲撃なども起こり、南出身のアルビード副大統領が「サナアでは身の安全が守れない」と言ってアデンに引きこもってしまいます。この背景には首都の地位を失い、「自由港構想」が打ち上げられながら全くアデンの開発に予算が回って来ないことに堪忍袋の緒を切らしたアデン市民の声がありました。このときにもカタールなどGCC諸国が調停に入り、サレハ大統領とアルビード副大統領がサナアとアデンの真ん中にあるタイズで和解会合を行ったりしました。

しかし、事態は好転せずそれぞれ敵地に配備されていた旧南北軍が別々の指揮系統で衝突をし始め、1994年5月4日に内戦が始まってしまいます。これは、1990年に軍を統一することを先延ばしにしたことの、必然的な結果であったと言えます。ただ、戦況は北側に有利で、1986年のアデン政変で追放されていたアリー・ナーセル前南イエメン大統領派も北軍に合流、さらにイスラーハ勢力と北部部族勢力も北軍に合流したために、6月末にはアデン以外は鎮圧されます。籠城状態になったアルビード派はアデンで「南イエメン国」の独立を宣言しますが、結局7月7日に陥落。アルビード副大統領、アッタール首相らはサウジに亡命して内戦は決着しました。

この内戦の結果、旧南の軍隊はすべて武装解除され軍事的な抵抗力を剥奪されてしまいます。これで内戦再発の可能性はほとんどなくなりました。アルビードに代わる副大統領にはアリー・ナーセル派のハーディー氏が就任します。内戦後、サレハ大統領は政治的、経済的に重要なアデンの不満をなだめるために頻繁にアデンを訪問し、かつ反乱分子を取り締まるために腹心の政治家をアデン市長に任命します。また、内戦後も現在に至るまで基本的に南出身の首相が続くのは南イエメンの人々の声を決して無視していないという姿勢を見せるためでしょう。

しかし懐柔策を示しても、基本的に統一国家における旧南イエメン地域の「軽視」は否定しがたく、旧南の諸州の知事に北の軍人が天下ってきて、好き勝手なことをして私腹を肥やすという不満も鬱積しています。また、武装解除によって失業した軍人たちは年金支払いの遅延などで、満足に家族を養えないという状況に追い詰められています。こうした人々は、数年前から南の地方都市でデモや示威行動を行うようになりました。時には道路を封鎖したり治安部隊と衝突したりという事件もしばしば報道されていました。これが、現在の「南部分離派」の動きの底流なのです。

今年(2011年)6月初めのサレハ大統領負傷後の権力の空白を利用して、旧南イエメンのいくつかの都市(特にラヘジ州、アブヤン州、ダーレア州など)で武装勢力が治安部隊から支配権を奪ったという報道がなされています。欧米メディアはこれを「アルカーイダ系」と説明していますが、部分的な支援関係はあるとしても基本は「南部分離派」の人々だと思います。そして、南部分離派はサレハ政権の崩壊のためには、どのような外部勢力とも協力するでしょうが、彼らがアルカーイダと共闘することなどあり得ません。アデンの市民がそんなことを望む理由はないのです。彼らは自分たちの力で自由港を再構築したいと考えているのです。グローバル経済に背を向ける政策などあり得ません。

私はサレハ大統領は、いずれかの段階で(望むらくは自主的に)退陣すると見ていますが、それによって現在の混乱が収まったとしても、旧南イエメンの人々の「統一国家」に対する失望には根深いものがあり、この問題に真剣に取り組まない限り統一イエメンの将来はありません。これは、イエメンにとってはアルカーイダ系の勢力が数百人程度いることとは比べものにならならいほどの重大問題であり、アラビア半島全体の安定にとっても無視できない問題なのです。
【佐藤寛 2011/6/22】

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