アルカーイダよりも、イエメンの内政にとって重大な問題は二つあります。一つが北部の「アル・ホーシー派」の騒乱、もう一つが南部の分離独立派の活動です。まず、アル・ホーシー派について解説しましょう。
イエメンの主要都市は首都のサナア(標高2300m)、南部の港町アデン(旧南イエメン時代の首都)、その中間にあるタイズ(標高1000m)、紅海沿岸の港町ホデイダ、東部ハドラマウトの港町ムカッラなどがあります。そのほかに北部のサウジとの国境近くにサアダという町があり、特に北部部族勢力の拠点として重要です。
そして、サナアから山岳道路を通ってサアダに抜ける途上に「アル・ホウス」という町があります。アラビア語で「アル」は定冠詞、英語のtheに相当します。Howthの形容詞形はHowthy、すなわち「アル・ホーシー」は文字通りには「ホウス地方の」を意味する形容詞です。また、同時にその地方の出身者の名字のような使われ方をすることもあります。今回の一連の出来事は「アル・ホーシー」を名乗る家系の人が主導しているので「アル・ホーシー派」と呼ばれています。
新聞などの報道では「イスラム過激派」とか「イスラム原理主義」とか書かれている例もあるようですが、どちらも正確ではありません。アル・ホーシー派は現在のサレハ政権の北部部族領域に対する政策に不満を持つ人々がイスラムの知識人である「アル・ホーシー」に共鳴してその旗の下に集まっている、というきわめてローカルな性格の集団です。
現在のイエメン共和国は1990年に「イエメンアラブ共和国(北イエメン)」と「イエメン人民民主共和国(南イエメン)」が統一して出来たのですが、旧北イエメンは1962年まではイスラム教ザイド派のイマーム(聖俗両面の指導者)の支配下にありました。このザイド派というのは8世紀以来北部イエメンの支配的な宗派で、イエメンを支配した歴代イマームは基本的にこの宗派の最高権威です。そして、イマームはいくつかの有力家系の中から選ばれるのですが、その中の最有力家系「ハミード・アッ・ディーン」家の根拠地は「アル・ホウス」周辺でした。
「アル・ホーシー」ももちろんこのザイド派の宗教知識人です。そして、ザイド派は、イスラム教のシーア派の一派です。このことから、欧米の単純な人々はすぐに「イランの陰謀」という筋書きを作るのですが、一口に「スンニ」と「シーア」と言ってもいろいろあります。旧北イエメンのサナアから北はほぼすべて「ザイド派」で、それ以外のタイズ周辺、紅海沿岸、内陸砂漠部はスンニ派に属する「シャーフィー派」に属し、人口はほぼ半々でした。旧南イエメンはほぼすべて「シャーフィー派」で、南北統一に伴い、宗派バランスでは「ザイド派」は過半数を割っています。しかし、サレハ大統領はザイド派です。
しかし、イエメンの政治においては宗派(スンニとシーア)はほとんど意味を持って「いません」。サナアにはザイド派(シーア)の人もシャーフィー派(スンニ)の人も混在していますが、同じモスクで礼拝することが出来ます。ザイド派は「シーアの中で最もスンニに近い」といわれているのです。ですからイラクやイランの紛争を頭に置いて、ホーシー派がシーアなのでイランが介入している、などと単純に決めつけるのは危険です。繰り返しますが、サレハ大統領は北部部族の出身ですから、アル・ホーシーと同じザイド派なのです。
もちろん「アル・ホーシー」は現在の国の宗教政策に不満はあるでしょうが、むしろ勢力を拡張したのは宗教的な主張の故ではなく、経済的にも政治的にもあまり優遇されていないと感じている北部部族地域の不満があるからです。これこそが、サレハ政権の危機なのです。サレハ大統領は北部部族地域については部族の代表者を通じて間接統治をしてきました。その代表者の筆頭が「アハマル家」でした。アル・ホーシー派の反乱は、このアハマル家を通じた間接統治が有効でなくなったことを示しています。そして、サウジとの国境地域には、サウジ王家から直接補助金をもらって軍備を整えている様々な部族がおり、こうした人たちが結集すれば国軍に対抗できる軍事力となるのです。
アル・ホーシー派の反乱は2006年頃から本格化し、いくつかの地方都市を実質支配することもありましたし、2008年には首都サナアのすぐ北東の「バニー・ホシェイシ」地区まで進軍したこともあります。その後政府軍が盛り返して2010年はじめにはサアダ周辺で激しい攻防戦があり、サウジ軍もアル・ホーシー派を空爆したこともあるようです。この問題はサウジをはじめGCC諸国の懸念を招き、カタールなどの仲介で何度か休戦協定を結ぶところまで行きましたが、決着はしていません。そうこうするうちに2011年2月からの「民主化デモ」が始まったのです。
現在アル・ホーシー派の動向はあまり報じられませんし、ひと頃に比べて軍事行動は下火にはなっているかもしれません(というより、国軍がそれどころではない状態でかまっていられないのでしょうが)。しかし、基本的にサレハ政権の北部部族地域政策に対する積み重なる不満がある状況は変わっていません。他方、サナアなどで行われている「民主化デモ」と「アル・ホーシー派」とはほとんど接点はないと思います。
大切なことは、 どのような形であれ、「サレハ後」の時代がやってきたとしても、「アル・ホーシー派」問題は、「アルカーイダ」よりもイエメンの内政安定のためにはより重要な課題であるということを忘れないことだと思います。【佐藤寛 2011/6/18】
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