H23年度の総会が7月8日にJICA広尾で開催されました。
1.始めに
基調講話を下記の2名にお願いした。
1)Dr.マルワン氏(東京農工大)
「最新情報のイエメン」
2)足立 氏(主任研究員/中近東文化センター)
「センターの紹介とシリアにおける発掘の調査」
大変有意義な講和でした。Dr.マルワン理事のイエメン情勢はタイムリーな話題でした。足立氏の講話は日本が協力して発掘の調査をしている割には一般的に知られておらず大変貴重な話でした。シリアを訪問する機会があれば是非訪問してみたい遺跡群が多く有りました。
2.議題報告
1)会計報告
理事会で承認されたH22年度活動報告は承認された。
但し、H23年度の予算については作成して理事会に図る事とした。
2)活動報告と計画
平成22年の活動報告と平成23年度の活動計画は承認された。
具体的には4.を参照してください。
3)役員の追加
在留イエメン人担当理事を設け、Dr.マルワン氏(東京農工大・准教授)が
承認された。
4)日比谷公園での展示用パネルについて
昨年、紛失した10枚ほどのパネルの代替として二枚程度を再度作成する事と
なった。手配等は後日事務方で決定し理事会に報告をする。
3.その他報告
1)元駐イエメン国日本大使の瑞宝中綬章受賞
元駐イエメン国日本大使の「鹿毛純之助」氏が、平成23年度の春の叙勲で
瑞宝中綬章を受賞された。
協会として講演会の実施を検討します。
2)H23年度の予算が議論され近日中に作成して理事会に提出する。
3)規約の一部改定
役員の定数の変更及び年会費についての項を後日専務等と打ち合わせて
決定し理事会に報告をする。
4.平成23年度活動計画(平成23年4月1日~平成24年3月31日)
主な活動計画は下記の通り。
1)グローバル・フェスタの参加
本年も10月1日・2日に日比谷公園にて開催される
グローバル・フェスタに大使館のお手伝いとして参加。
協会の輪を広げ会員の増加を目標としたい。
2)マフラジ(機関紙)の発行 (年に一回 以上の予定)
3)ブログの更新最低月一回の記載
4)新年会または忘年会を実施する予定。
5)当協会のカレンダーの作成
本年度用同様に卓上カレンダーを作成する。
6)アラビア語の自主勉強会の検討
対象者を検討して再度事務局が検討をする。
7)協会独自のイベント(講演会等)の開催
8)その他(本年度の報告事項として)
以下のイベントは中止又は不参加となった。
・主催者都合で中止 アラブ・デー(4月1日)
・主催者都合で中止 駐アラブ大使夫人の会バザー
・イベントの不参加
(4月23日・広尾でのフェスタ及び7月18日のFTバザー)
以上
報告まで
何か質問等が有りましたら事務局まで連絡を頂ければ幸いです。
日本・イエメン友好協会
事務局長
2011年7月13日水曜日
2011年7月12日火曜日
【イエメンはどこに行く・12】《アデン・アラビア》
アデンはインド洋の西の端に位置し、アラビア半島と「アフリカの角」ソマリアに挟まれたアデン湾に面しています。アラビア半島とアフリカ大陸の間の紅海の入り口に当たり、スエズ運河を越えて地中海に抜けるためには必ず通り抜けなければならない航路上にあります。
岩山に囲まれた天然の良港で、インド洋を航行する船舶にとっては重要な停泊地であり、15世紀には明の鄭和が寄航している記録もあるそうです。蒸気船の時代になってからは石炭補給地(のちに給油地)としてイギリスが活用し、1839年にイギリスが軍事占領した当初はインド提督の管轄下で(インド経営のためのイギリス船舶を海賊から守ることがもともとの目的だったため)、インドからの移民も多く現在でもアデンにはインド系の顔立ちの人が目立ちます。
イギリス占領下で、アデンは世界第二の寄港数を誇る近代的自由港としてその名を轟かせ、幕末から明治時代にかけての日本からの欧州派遣留学生の多くもこの港に寄港しています。スエズ運河完成(1869年)後はイギリスのアジア航路の要衝となり、イギリス人ばかりでなく、アフリカに進出しようとするヨーロッパ人のたまり場となっていたようです。詩人ランボーは19世紀末のフランス商社勤めの頃、この港に住んでいました。フランスのコミュニスト思想家、ポール・ニザンがパリの高等師範学校在学中にパリを逃げ出して一年間この町に住んだのは1930年。後にまとめられたエッセイ『アデン・アラビア』に彼は「アデンにヨーロッパの圧縮された姿」を見たと書いています。
1937年に「アデン植民地」としてイギリス本国からの直接支配になり、補給機能充実のために製油所が建設された1950年代がこの港のピークだったようです。当時は港の税関・入国管理事務所を抜けたところに「免税店街」があり、旅客船が着くたびに船からはき出された客でごった返したそうです。
その後旅客は航空機の時代になっていき、また1960年代以降は中東・アフリカにおける英仏の影響力が低下してアデンは顧みられなくなっていきますし、1970年代になるとアラビア半島の産油国が「オイルパワー」を用いて急速な近代化を開始し、アデンは「アラビア半島一の近代都市」から「田舎の港町」に転落していきました。《タワーヒー》と呼ばれるこの税関前の海岸通りには、今でも昔のままの石造りの建物がありますが、いずれも鎧戸を下ろし、さびれ果てていて当時の面影はありません。アデンの没落はある意味では「時代の流れ」ですが、他方政治に翻弄された「人災」の部分も少なくありません。
まず第一の「失敗」はイギリスの植民地統治の後遺症です。イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぎましたが、その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットを感じていませんでした。このため、これらの地域は現地の首長(Sahikh)やスルタン(Sultan)が治める「土侯国」「スルタン国」の権限をある程度認め、補助金を提供しながら間接統治をしていました。さて1960年代に末にイギリスが植民地を手放すときには、なるべく親英的な穏健派に権力を譲ろうといろいろと工作しました。
アデンはイギリス直轄領で、教育などの機能も充実していたし、港湾関係の雇用もあるので北イエメンから山を下りて多くの労働者が流入し、アデンに定着する人も出てくると、子弟を出身地から呼び寄せ、学校教育を受けさせます。このため、アデンには他の南イエメンとのつながりの薄い北イエメン出身の労働者が多くなりました。このほかにイギリスに連れてこられたインドからの移民も大きなコミュニティーとなっています。そのほか対岸のソマリアからも流入してきます。この意味でアデンは国際都市だったのです。
湾を挟んで港の対岸《リトル・アデン》に建設されたアデン製油所はブリテッシュ・ペトロリアムの経営する近代的な施設で、多くの労働者を雇用し、労働者のためのラジオ局、映画館などの施設も充実していました。またもともとの港湾作業に従事する労働者も数多くいます。
1956年のスエズ危機で英仏を向こうに回して戦ったエジプトのナセル大統領はアラブ世界全体の英雄となり、彼の唱える「アラブ民族主義」はイギリス植民地下にあるアデンの人々、保護領となっている地域の若者、さらにはイマームの圧政に苦しむ北イエメンのエリートなどを刺激します。こうしてアデンやアデン保護領では労働組合、アデンで教育を受けた部族出身者などを中心に急速に「反英独立闘争」が活発化します。
イギリスは当初これを軍事的に抑圧しますが、南イエメン独立の方針が発表されると、過激化するアデンの労働者よりもアデン保護領の保守的な首長たちに政権を委譲して、独立後の権益を確保することをめざし、1959年に六つの首長国からなる「南アラビア首長国連邦」を結成します(その後1962年に4つが加わって「南アラビア連邦」になり。1965年までには「上ヤーフェア」首長国以外のすべての保護領の首長国が加盟しました)。この穏健派首長の抱き込みによる親英国の確保、実はアラビア半島の対岸でも同じ試みが行われていたのです。それが、現在のアラブ首長国連邦(UAE)です。UAEは今でも七つの首長国の連邦で、ドバイ、アブダビなどは中東でも指折りの近代都市になっていますね。
イギリスはこうした保守派首長国によってアデンの過激化する政治勢力を中和しようとしたのですが、ペルシャ湾岸のUAEのようには行きませんでした。それは、1962年に北隣のイエメンで共和国革命が起こり、南部イエメンの人々にも「革命熱」が広がったこと、さらに紅海を挟んだ向かいにはナセルのエジプトが控えており、ナセル大統領からの物心両面の支援が「アラブ民族主義」勢力に届きやすかったからです。
アデンで彼らは占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)を組織して独立闘争を継続します。今なら、イギリスやアメリカはナセルを「テロリスト」と呼ぶかもしれませんね。イギリスは1965年には「南アラビア連邦」の自治権を停止して直接統治に乗り出ますが、思い通りにはいかず妥協してFLOSYやその他のアデンの政治勢力、と南アラビアの首長国と独立方法について交渉を始めます。
ところが、時は冷戦時代で、アフリカに続々登場した社会主義政権同様、アデンにはFLOSYよりさらに急進的な社会主義勢力NLFが台頭、東側勢力からの支援を受けて1967年後半に首長国を次々と軍事的に攻略、同年10月にはアデンも支配下に置くまでなりました。イギリスはもはやアデンのコントロールをあきらめ、11月末にNLFと独立協定を結んであっけなく撤退しています。新生「南イエメン人民共和国」はアデン、旧アデン保護領、旧ハドラマうと保護領を統合して誕生します(1967年11月30日)。
この時点では、アデン以外の地域は決して社会主義に賛成していたわけではありません(南アラビア連邦の一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアに亡命しました)が、たまたまアデンを握っていたNLFがイギリスから政権を移譲されたことが、これ以降長く続くアデンの凋落の第一歩となるのです。この意味で、イギリスの無責任な権力放棄の罪は小さくありません。 【佐藤寛 2011/7/12】
岩山に囲まれた天然の良港で、インド洋を航行する船舶にとっては重要な停泊地であり、15世紀には明の鄭和が寄航している記録もあるそうです。蒸気船の時代になってからは石炭補給地(のちに給油地)としてイギリスが活用し、1839年にイギリスが軍事占領した当初はインド提督の管轄下で(インド経営のためのイギリス船舶を海賊から守ることがもともとの目的だったため)、インドからの移民も多く現在でもアデンにはインド系の顔立ちの人が目立ちます。
イギリス占領下で、アデンは世界第二の寄港数を誇る近代的自由港としてその名を轟かせ、幕末から明治時代にかけての日本からの欧州派遣留学生の多くもこの港に寄港しています。スエズ運河完成(1869年)後はイギリスのアジア航路の要衝となり、イギリス人ばかりでなく、アフリカに進出しようとするヨーロッパ人のたまり場となっていたようです。詩人ランボーは19世紀末のフランス商社勤めの頃、この港に住んでいました。フランスのコミュニスト思想家、ポール・ニザンがパリの高等師範学校在学中にパリを逃げ出して一年間この町に住んだのは1930年。後にまとめられたエッセイ『アデン・アラビア』に彼は「アデンにヨーロッパの圧縮された姿」を見たと書いています。
1937年に「アデン植民地」としてイギリス本国からの直接支配になり、補給機能充実のために製油所が建設された1950年代がこの港のピークだったようです。当時は港の税関・入国管理事務所を抜けたところに「免税店街」があり、旅客船が着くたびに船からはき出された客でごった返したそうです。
その後旅客は航空機の時代になっていき、また1960年代以降は中東・アフリカにおける英仏の影響力が低下してアデンは顧みられなくなっていきますし、1970年代になるとアラビア半島の産油国が「オイルパワー」を用いて急速な近代化を開始し、アデンは「アラビア半島一の近代都市」から「田舎の港町」に転落していきました。《タワーヒー》と呼ばれるこの税関前の海岸通りには、今でも昔のままの石造りの建物がありますが、いずれも鎧戸を下ろし、さびれ果てていて当時の面影はありません。アデンの没落はある意味では「時代の流れ」ですが、他方政治に翻弄された「人災」の部分も少なくありません。
まず第一の「失敗」はイギリスの植民地統治の後遺症です。イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぎましたが、その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットを感じていませんでした。このため、これらの地域は現地の首長(Sahikh)やスルタン(Sultan)が治める「土侯国」「スルタン国」の権限をある程度認め、補助金を提供しながら間接統治をしていました。さて1960年代に末にイギリスが植民地を手放すときには、なるべく親英的な穏健派に権力を譲ろうといろいろと工作しました。
アデンはイギリス直轄領で、教育などの機能も充実していたし、港湾関係の雇用もあるので北イエメンから山を下りて多くの労働者が流入し、アデンに定着する人も出てくると、子弟を出身地から呼び寄せ、学校教育を受けさせます。このため、アデンには他の南イエメンとのつながりの薄い北イエメン出身の労働者が多くなりました。このほかにイギリスに連れてこられたインドからの移民も大きなコミュニティーとなっています。そのほか対岸のソマリアからも流入してきます。この意味でアデンは国際都市だったのです。
湾を挟んで港の対岸《リトル・アデン》に建設されたアデン製油所はブリテッシュ・ペトロリアムの経営する近代的な施設で、多くの労働者を雇用し、労働者のためのラジオ局、映画館などの施設も充実していました。またもともとの港湾作業に従事する労働者も数多くいます。
1956年のスエズ危機で英仏を向こうに回して戦ったエジプトのナセル大統領はアラブ世界全体の英雄となり、彼の唱える「アラブ民族主義」はイギリス植民地下にあるアデンの人々、保護領となっている地域の若者、さらにはイマームの圧政に苦しむ北イエメンのエリートなどを刺激します。こうしてアデンやアデン保護領では労働組合、アデンで教育を受けた部族出身者などを中心に急速に「反英独立闘争」が活発化します。
イギリスは当初これを軍事的に抑圧しますが、南イエメン独立の方針が発表されると、過激化するアデンの労働者よりもアデン保護領の保守的な首長たちに政権を委譲して、独立後の権益を確保することをめざし、1959年に六つの首長国からなる「南アラビア首長国連邦」を結成します(その後1962年に4つが加わって「南アラビア連邦」になり。1965年までには「上ヤーフェア」首長国以外のすべての保護領の首長国が加盟しました)。この穏健派首長の抱き込みによる親英国の確保、実はアラビア半島の対岸でも同じ試みが行われていたのです。それが、現在のアラブ首長国連邦(UAE)です。UAEは今でも七つの首長国の連邦で、ドバイ、アブダビなどは中東でも指折りの近代都市になっていますね。
イギリスはこうした保守派首長国によってアデンの過激化する政治勢力を中和しようとしたのですが、ペルシャ湾岸のUAEのようには行きませんでした。それは、1962年に北隣のイエメンで共和国革命が起こり、南部イエメンの人々にも「革命熱」が広がったこと、さらに紅海を挟んだ向かいにはナセルのエジプトが控えており、ナセル大統領からの物心両面の支援が「アラブ民族主義」勢力に届きやすかったからです。
アデンで彼らは占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)を組織して独立闘争を継続します。今なら、イギリスやアメリカはナセルを「テロリスト」と呼ぶかもしれませんね。イギリスは1965年には「南アラビア連邦」の自治権を停止して直接統治に乗り出ますが、思い通りにはいかず妥協してFLOSYやその他のアデンの政治勢力、と南アラビアの首長国と独立方法について交渉を始めます。
ところが、時は冷戦時代で、アフリカに続々登場した社会主義政権同様、アデンにはFLOSYよりさらに急進的な社会主義勢力NLFが台頭、東側勢力からの支援を受けて1967年後半に首長国を次々と軍事的に攻略、同年10月にはアデンも支配下に置くまでなりました。イギリスはもはやアデンのコントロールをあきらめ、11月末にNLFと独立協定を結んであっけなく撤退しています。新生「南イエメン人民共和国」はアデン、旧アデン保護領、旧ハドラマうと保護領を統合して誕生します(1967年11月30日)。
この時点では、アデン以外の地域は決して社会主義に賛成していたわけではありません(南アラビア連邦の一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアに亡命しました)が、たまたまアデンを握っていたNLFがイギリスから政権を移譲されたことが、これ以降長く続くアデンの凋落の第一歩となるのです。この意味で、イギリスの無責任な権力放棄の罪は小さくありません。 【佐藤寛 2011/7/12】
2011年7月6日水曜日
【イエメンはどこに行く・11】《ティハマとアフリカ》
サレハ大統領が大統領府での爆発で重傷を負ってから一ヶ月が経過しました。サレハ大統領がサウジに手術のために出国したときに「これでサレハが退陣して、問題解決」という楽観的な見通しを出した人もいましたが、一ヶ月たっても事態は進展していません。すでにお話しししたように、私はサレハが一度帰国して退陣を表明することが安定的な政権移行には不可欠な前提条件と考えています。
今日、ロンドンでイエメンの民主化運動をサポートしている若者と話をする機会がありました。彼は、サレハがこのまま引退して「権力の空白」が出来たら民主化運動の代表者が話し合って今後の政治の行方に合意すれば良いのでは、と言います。もし、今サナアで様々な民主化運動をしている人たちが、イエメン全体を代表しているのならそれも可能かもしれません。しかし、私はサナアで起こっていることは決してイエメンの多くの国民の意向を反映しているとは思えません。前回お話したハドラマウトは「代表されていない」人々ですし、「ティハマ」の人々も同様です。
「ティハマ」は沿岸部を意味するアラビア語で、広義にはアラビア半島の西側から南側を取り巻く沿岸部を指しますが、主にイエメンの紅海沿岸部を指す言葉として使われます。ティハマは平均して幅60キロメートルくらいの砂地の平地で、そこから内側は急峻な山岳部がそそり立っています。山岳部には雨が降りますが、ティハマは灼熱の地で雨もほとんど降りません。山岳部に降った雨が紅海に向かって流れていく道筋がワーディーになっていて、ワーディーに沿った農業が行われています。ワーディーは海に届く前に蒸発して消えてしまいますが、山から出てきたあたりにダイバージョン・ダムを造って灌漑設備を作るという「開発計画」は1970年代に国際機関の援助によるイエメン最初の援助プロジェクトとして実施されたのです(残念ながら現在では十分なメンテナンスはなされていませんが)。
ティハマの対岸はスーダン南部とエリトリア(1994年にエチオピアから独立しました)で、イエメンの漁民は紅海を股にかけて漁をしており、両側に妻を持っている人も少なくないと言います。このため、エリトリアの沿岸部はイスラム教徒がほとんどで、用いられている言葉もイエメン方言のアラビア語でする(内陸部はキリスト教徒で用いられているのもアラビア語ではありません)。このため、ティハマの人々の方にもアフリカ系の血が混じっている人も多く、住居も山岳部の石造り、日干し煉瓦造りの方形の家とは異なり、いわゆる草葺き屋根の「マッシュルームハウス」が基本です。
産業は漁業と農業、製塩業、陶器作りなどですが、イエメンの中でも最も貧しい地域です。これは、アフリカ系の人々がイエメン政治の中では一段低く見られていることも影響しています。ティハマの農地はほとんど山岳部の部族が所有権を持っているといわれているのです。またティハマのアフリカ系の人々はかつてエチオピアとイエメンが戦争してイエメンが勝ったときに奴隷として連れてこられた人たちの子孫だという人もいます。シバの女王の遺跡がイエメン内陸部のマーリブと、エチオピア内陸部の両方にあるのも、その当時から紅海を挟んだ人の行き来があったことの証拠です。
また、1990年の湾岸危機(イラクのクウェート侵攻)の時に、サウジアラビアがイエメンのイラク支持に怒って国内から追放したイエメン系の人々が難民のようにして住み着いているキャンプもティハマにいくつかあって、貧困層の数を増しています。さらに、アデン湾側に回ると、ソマリアからの難民も続々と船に乗って漂流してきます。このように、ティハマは貧しく、またアフリカとの関係が強いのです。しかし、ソマリア難民以外のティハマの人々は立派なイエメン人です。ところが、彼らの代表者はあまりイエメンの政治に登場してきません。
紅海の沿岸には、北部イエメンの主要港であるホデイダ、かつてコーヒー貿易で栄えたモカ(モカコーヒーの名前はこの港にちなんでいます)などがありますが、ホデイダを押さえているのは山岳部の人々だし、モカ港は完全にさびれています。一言で言えば、ティハマの人々は「忘れ去られて」いるのです。おかげで、これまでイエメン国内で様々な内戦があっても、ティハマは常に「蚊帳の外」だったので、平和が保たれてきたということはあります。
今回の政治的混乱がどのような形で沈静化するとしても、今後はティハマの発展、ととりわけ保健(マラリアも定期的に流行しますし、アフリカからの難民などの流入でHIVエイズの蔓延も危惧されます)、教育の充実が適切に配慮されるべきでしょう。ティハマの人々がある程度安定的に生活できるようになれば、対岸のアフリカにも良い影響を及ぼすでしょうし、アフリカからの難民に一定程度の教育や職業訓練を施すことは、将来の「アフリカの角」の安定化にも寄与するでしょう。それ以上に、サナアを舞台に北部部族勢力の人々だけが権力をたらい回しする状況を放置しないためにも、ティハマの発言力強化は意味があると思います。【佐藤寛 2011/7/6】
今日、ロンドンでイエメンの民主化運動をサポートしている若者と話をする機会がありました。彼は、サレハがこのまま引退して「権力の空白」が出来たら民主化運動の代表者が話し合って今後の政治の行方に合意すれば良いのでは、と言います。もし、今サナアで様々な民主化運動をしている人たちが、イエメン全体を代表しているのならそれも可能かもしれません。しかし、私はサナアで起こっていることは決してイエメンの多くの国民の意向を反映しているとは思えません。前回お話したハドラマウトは「代表されていない」人々ですし、「ティハマ」の人々も同様です。
「ティハマ」は沿岸部を意味するアラビア語で、広義にはアラビア半島の西側から南側を取り巻く沿岸部を指しますが、主にイエメンの紅海沿岸部を指す言葉として使われます。ティハマは平均して幅60キロメートルくらいの砂地の平地で、そこから内側は急峻な山岳部がそそり立っています。山岳部には雨が降りますが、ティハマは灼熱の地で雨もほとんど降りません。山岳部に降った雨が紅海に向かって流れていく道筋がワーディーになっていて、ワーディーに沿った農業が行われています。ワーディーは海に届く前に蒸発して消えてしまいますが、山から出てきたあたりにダイバージョン・ダムを造って灌漑設備を作るという「開発計画」は1970年代に国際機関の援助によるイエメン最初の援助プロジェクトとして実施されたのです(残念ながら現在では十分なメンテナンスはなされていませんが)。
ティハマの対岸はスーダン南部とエリトリア(1994年にエチオピアから独立しました)で、イエメンの漁民は紅海を股にかけて漁をしており、両側に妻を持っている人も少なくないと言います。このため、エリトリアの沿岸部はイスラム教徒がほとんどで、用いられている言葉もイエメン方言のアラビア語でする(内陸部はキリスト教徒で用いられているのもアラビア語ではありません)。このため、ティハマの人々の方にもアフリカ系の血が混じっている人も多く、住居も山岳部の石造り、日干し煉瓦造りの方形の家とは異なり、いわゆる草葺き屋根の「マッシュルームハウス」が基本です。
産業は漁業と農業、製塩業、陶器作りなどですが、イエメンの中でも最も貧しい地域です。これは、アフリカ系の人々がイエメン政治の中では一段低く見られていることも影響しています。ティハマの農地はほとんど山岳部の部族が所有権を持っているといわれているのです。またティハマのアフリカ系の人々はかつてエチオピアとイエメンが戦争してイエメンが勝ったときに奴隷として連れてこられた人たちの子孫だという人もいます。シバの女王の遺跡がイエメン内陸部のマーリブと、エチオピア内陸部の両方にあるのも、その当時から紅海を挟んだ人の行き来があったことの証拠です。
また、1990年の湾岸危機(イラクのクウェート侵攻)の時に、サウジアラビアがイエメンのイラク支持に怒って国内から追放したイエメン系の人々が難民のようにして住み着いているキャンプもティハマにいくつかあって、貧困層の数を増しています。さらに、アデン湾側に回ると、ソマリアからの難民も続々と船に乗って漂流してきます。このように、ティハマは貧しく、またアフリカとの関係が強いのです。しかし、ソマリア難民以外のティハマの人々は立派なイエメン人です。ところが、彼らの代表者はあまりイエメンの政治に登場してきません。
紅海の沿岸には、北部イエメンの主要港であるホデイダ、かつてコーヒー貿易で栄えたモカ(モカコーヒーの名前はこの港にちなんでいます)などがありますが、ホデイダを押さえているのは山岳部の人々だし、モカ港は完全にさびれています。一言で言えば、ティハマの人々は「忘れ去られて」いるのです。おかげで、これまでイエメン国内で様々な内戦があっても、ティハマは常に「蚊帳の外」だったので、平和が保たれてきたということはあります。
今回の政治的混乱がどのような形で沈静化するとしても、今後はティハマの発展、ととりわけ保健(マラリアも定期的に流行しますし、アフリカからの難民などの流入でHIVエイズの蔓延も危惧されます)、教育の充実が適切に配慮されるべきでしょう。ティハマの人々がある程度安定的に生活できるようになれば、対岸のアフリカにも良い影響を及ぼすでしょうし、アフリカからの難民に一定程度の教育や職業訓練を施すことは、将来の「アフリカの角」の安定化にも寄与するでしょう。それ以上に、サナアを舞台に北部部族勢力の人々だけが権力をたらい回しする状況を放置しないためにも、ティハマの発言力強化は意味があると思います。【佐藤寛 2011/7/6】
2011年7月2日土曜日
【イエメンはどこに行く・10】《ハドラマウト・後編》
ハドラマウトに行くと、イエメンの他の地域とはモスクの様式が異なっていることに気づきます。山岳部イエメンのモスクのミナレットは円柱形で、漆喰の白と日干し煉瓦の茶色のいずれかの色が多いのですが、ハドラマウトのミナレットは細い角柱形で、一番上にバルコニー形式の吹き抜けのスペース(本来は礼拝を呼びかける人がそこに立って朗唱した場所ですが、今はラウドスピーカの設置場所)が付いています。そして淡いピンクやブル-、緑などのパステルカラーで彩色されています。
人々の顔つきも、山岳部アラブは彫りの深い厳しい顔立ちですが、ハドラマウトに来るとアジア系の血が混じったやや鼻の低い温和な顔立ちが目立ちます。ハドラマウトは旧南イエメン時代はアデンと並ぶ人材供給源で、イエメン社会党はアデン系の人々とハドラマウト系の人々によって支えられていました。しかしながら、1994年の内戦でハドラマウト出身のアルビード副大統領が失脚して以降は、ハドラマウト系の人々の発言力は低下します。
南北イエメンが統一されて、社会主義的な政策が崩壊したことは、経済活動に活路を見いだすハドラミー(ハドラマウトの)商人にとっては朗報でした。しかしながら統一に伴って政府の機能の多くと主立った政治家はサナアに移ってしまい、彼らの活躍の舞台であったアデンは首都の地位を失って重要性が低下してしまいます。
また、高原都市である首都サナアは灼熱のハドラマウト渓谷(夏には50度を超えることもあります)に比べて寒すぎ(冬には霜が降りることもあります)て住みにくく、また「野蛮」な山岳地イエメン人の支配する政府とハドラマウト商人とはなかなかそりが合いません。こうしてハドラミーはイエメンの政治・経済の蚊帳の外に置かれてしまうのです。
しかも、サナアの中央政府からはハドラマウト地方の開発はさらに後回しにされがちであるばかりでなく、「行政改革」の名の下に従来のハドラマウト州を海岸部(港町ムカッラが中心)と内陸部(ワーディーのオアシス都市セイユーン中心)に分割するという提案があり、これに対してはハドラミーは猛反発しています。確かに他の18州に比べてハドラマウト州の面積は不釣り合いに大きいのは事実ですが、ハドラミーとしてのアイデンティティーを強く持つ彼らにとっては分割は受け入れられないのです。こうした不満の果てに、一部では「ハドラマウト独立」を唱える声出てくる始末です。
今回の民主化デモはサナアを中心に盛り上がっていますが、ハドラマウトの人々がこれにどのようにコミットしているのかは明らかではありません。しかしながら、ハドラミーにしてみれば、誰が政権を取るにせよ「とにかく我々の好きなようにさせてくれ」というのが本音でしょう。実際に、彼ら自身で地元の発展を計画し、実施していく能力は確実にあると考えられます。それなのに、中央政府から任命されてくる軍人や知事が行き勝手なことばかりするから発展できないのだ、というのが彼らの偽らざる心情なのです。
では、今後ハドラマウトはどうなるのでしょう。イエメン全体の発展のためにも、特に潜在力の高いハドラマウトは、ハドラマウト人自身による開発計画にゆだねるべきでしょう。その基本は人的資本を活用した自由な商業活動による発展です。そして東アフリカ、東南アジア、南アジア、さらにはサウジアラビアの財閥とのネットワークという財産を最大限活用できるような活動の自由を与えることが望ましいのだと思います。 ハドラマウトにとっては、サナアの政権が誰の手に落ちようとも直接的には関係ありません。その意味で今回の一連の騒動の影響は限定的でしょう。しかし、新たな政権がこれまで通りハドラマウトを軽視したり、過度に制約を課したりすることは南アラビア全体、アラビア半島全体の安定にとって望ましくない事態を招きかねないと思います。
【佐藤寛 2011/7/2】
人々の顔つきも、山岳部アラブは彫りの深い厳しい顔立ちですが、ハドラマウトに来るとアジア系の血が混じったやや鼻の低い温和な顔立ちが目立ちます。ハドラマウトは旧南イエメン時代はアデンと並ぶ人材供給源で、イエメン社会党はアデン系の人々とハドラマウト系の人々によって支えられていました。しかしながら、1994年の内戦でハドラマウト出身のアルビード副大統領が失脚して以降は、ハドラマウト系の人々の発言力は低下します。
南北イエメンが統一されて、社会主義的な政策が崩壊したことは、経済活動に活路を見いだすハドラミー(ハドラマウトの)商人にとっては朗報でした。しかしながら統一に伴って政府の機能の多くと主立った政治家はサナアに移ってしまい、彼らの活躍の舞台であったアデンは首都の地位を失って重要性が低下してしまいます。
また、高原都市である首都サナアは灼熱のハドラマウト渓谷(夏には50度を超えることもあります)に比べて寒すぎ(冬には霜が降りることもあります)て住みにくく、また「野蛮」な山岳地イエメン人の支配する政府とハドラマウト商人とはなかなかそりが合いません。こうしてハドラミーはイエメンの政治・経済の蚊帳の外に置かれてしまうのです。
しかも、サナアの中央政府からはハドラマウト地方の開発はさらに後回しにされがちであるばかりでなく、「行政改革」の名の下に従来のハドラマウト州を海岸部(港町ムカッラが中心)と内陸部(ワーディーのオアシス都市セイユーン中心)に分割するという提案があり、これに対してはハドラミーは猛反発しています。確かに他の18州に比べてハドラマウト州の面積は不釣り合いに大きいのは事実ですが、ハドラミーとしてのアイデンティティーを強く持つ彼らにとっては分割は受け入れられないのです。こうした不満の果てに、一部では「ハドラマウト独立」を唱える声出てくる始末です。
今回の民主化デモはサナアを中心に盛り上がっていますが、ハドラマウトの人々がこれにどのようにコミットしているのかは明らかではありません。しかしながら、ハドラミーにしてみれば、誰が政権を取るにせよ「とにかく我々の好きなようにさせてくれ」というのが本音でしょう。実際に、彼ら自身で地元の発展を計画し、実施していく能力は確実にあると考えられます。それなのに、中央政府から任命されてくる軍人や知事が行き勝手なことばかりするから発展できないのだ、というのが彼らの偽らざる心情なのです。
では、今後ハドラマウトはどうなるのでしょう。イエメン全体の発展のためにも、特に潜在力の高いハドラマウトは、ハドラマウト人自身による開発計画にゆだねるべきでしょう。その基本は人的資本を活用した自由な商業活動による発展です。そして東アフリカ、東南アジア、南アジア、さらにはサウジアラビアの財閥とのネットワークという財産を最大限活用できるような活動の自由を与えることが望ましいのだと思います。 ハドラマウトにとっては、サナアの政権が誰の手に落ちようとも直接的には関係ありません。その意味で今回の一連の騒動の影響は限定的でしょう。しかし、新たな政権がこれまで通りハドラマウトを軽視したり、過度に制約を課したりすることは南アラビア全体、アラビア半島全体の安定にとって望ましくない事態を招きかねないと思います。
【佐藤寛 2011/7/2】
平成23年度 総会の開催
平成23年度の総会を下記のとおり開催いたします。
日時:平成23年7月8日(金)18:30~
場所:JICA地球ひろば 401号室
総会時の講演(講演の時間帯は当日決定します。)
・Dr.マルワン博士(東農工大・講師) 氏 「イエメンの最新情報」
・足立 氏 「中近東文化センターの紹介」と「シリアにおける日本隊の発掘調査について」
総会の出欠に関しては連絡を頂ければ幸いです。
皆様の参加をお待ちしています、皆様万時繰り合わせてご出席ください。
★当ブログでは、現在 佐藤寛理事 の「イエメンは何処に行く」を連載していますが、これからも続きますので引き続きお楽しみください。
以上
今後とも宜しくお願いいたします。
日本・イエメン友好協会
事務局長
日時:平成23年7月8日(金)18:30~
場所:JICA地球ひろば 401号室
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・足立 氏 「中近東文化センターの紹介」と「シリアにおける日本隊の発掘調査について」
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